映画祭に

山形市を会場に行われる山形国際ドキュメンタリー映画祭といえば、結構世界的にも有名な大きい映画祭なのですが(実は僕は一度も観たことないのですが)、そこに僕も作品を出すことになってます。とはいっても、もちろんドキュメンタリー映画を出品するのではありません。
映画祭に合わせて、映画館やその周辺で場所を提供してもらって展示をするのですが、僕も参加することになりました。今、話し合いを進めている所で、あと、もちろん作品もつくらなくてはなりません。どうしようかな。
ドキュメンタリー映画祭は10月7日~13日にあります。


生を料理

デジカメの話だが、どうやらRAWデータで撮影してそれを現像すると良いらしい。ということは知っていたが、ようやく気が向いてきたのでこのところ試している。
RAWっていうのは生のデータで、つまり何にも処理されてない画像データ。でもそのままだと映像として見ることができないので、現像してJPEGかなんかに変換しなくちゃならない。で、現像の時にデータの劣化を気にせず色々調整ができるから、良いのだそうです。
僕は、写真をレタッチするのを、なんとなく後ろめたく感じてしまうタイプで、チマチマといじくるのは潔くないと思う。なんて本当は違う。
上等な肉は、いじくったり変なソースは掛けたりせずに、ただレアに焼いてわさび醤油で食うのが一番うまい。とかそういう話も、全然ちがう、な。
まー、料理とかでも、何も手を加えないのがいい、とかいうけど当然ながらそれは嘘。手は加えなくちゃいけないに決まってる。要は手を加えたということが分かってはダメなのだ。こりゃあカツオでだしを取ったなということが分かってはダメなのだ。
フランス料理は(食った時ないけど)色んな素材を組み合わせて緻密に複雑に味を構築していくし、懐石料理は(食った時ないけど)とにかくミニマムに味を引き出す。
素材はそのままでは素材に過ぎない。技法を凝らし素材以上の美味しさを引き出された超絶技巧の料理(写真)を堪能したい。
とまあ、自分でやるのは話は別で、面倒だしRAWは重いしもっとパワーのあるパソコン欲しいし、で、気が向いた時とここぞという時があればRAW現像をする、と。


Andy Goldsworthy

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あー、思い出した、ゴールズワージ。
ずっと名前を思い出せなくて、必死こいてあちこち探してた。ゴールズワージ(Andy Goidsworthy)はランドアーティストである。
別に取っておくつもりでもなかったのだけれど、部屋の隅から、石がザクザク出てきた。上の写真がそれだ。
だいぶ前になんかの授業で、ランドアート、アースアートということでゴールズワージを参照したのだった。その時に、では彼を真似して何かやってみましょう、みたいな課題が出て、それで石を集めたのだ。
「直線」とは観念的なものだ、自然の中に直線はあるのだろうか、自然物で直線を暗示させるにはどうすればいいのか。といった様なことだったと思う。それで、きれいに平にパッカリ割れた石を集めて並べてみる。すると、直線ができる。
あと、他にも、風景に必要最小限の手を加えてその見え方を変える、というやつで僕がやったのが下の写真なのだけれども。成功してるかどうかは別にして、やってて結構楽しかった。
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本物のゴールズワージは、こんなの比較にならないくらい面白いです。ある意味バカっぽくて。
Andy Goldsworthy


家居、せいて気をもむ

いつもなら休み中に東京なんかに行って友人に会ったり展覧会を観たりしながら、若干ほっとしたり猛烈に焦ったり意味なく闘志を燃やしたりするのが常なのだけれども、どうも近頃は、家で本読んでりゃあ良いかなあと出不精になってしまっている。
で、まあ家にいるのが多いけど、最悪なのが時間の過ごし方。とにかく家にいると何にもはかどらない。風水でいう気の流れが悪いんじゃないか、とか思っちゃうくらい。何にも出来ずに時間が過ぎる。
本当は、勉強しなくちゃならんことがあって、腰を据えてやろうと思ってて、しかしそれがどこまでやれば良いというのがないからやり難い。あまつさえ、そんなにやらなくてもなんとかなるのではないかなどとどっかで思ってるから、これはもう怠惰極まりない。


ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論

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ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論を読む。
1996年刊行の旧版に近年の対談(ロバート・ストア他)と作品図版を加え再編成した増補版。
ゲルハルト・リヒターは間違いなく今もっとも重要で、人気があって、評価されてて、現代美術に強い影響力を持つ作家の一人なのだろう。それも、リヒターが「画家」であることを考えると、うっすらと涙が滲んでくる思いがする。
その反面、今の今まで、僕がリヒターという作家性を前にして、どれだけ無知無関心であったかを問い詰めると、なんとまあ愕然たる気持ちになる。いや、でも、リヒターという作家には、大きな捉えどころのない漠とした印象(たぶんそれが作家性ということなんだけれど)は感じていたし、そういったものから無意識に顔を背けていたということもあるのかもしれない。僕は影響を受けやすいから。
なんのかんの言っても僕は絵画に興味があるし、平面作品をつくることももちろんある。ので、リヒターがどのような問題提起をし、どのように回答を与えていったのか、ということを考えていきたいです、これから。
それで、今度リヒターの回顧展が金沢21世紀美術館であるらしいので、出来れば観に行きたいなあ。一回は行ってみたいと思ってたんで、どうせならリヒターの時に行きたい。


「ほしのこえ」

セカイ系、ということに関してよく例に挙げられる、「ほしのこえ」を観た。携帯メールを介した宇宙と地上の遠距離恋愛の話。
これを一人で作ったということで単純にああすごいなと思ったのだけれど。
きみとぼく、と世界を媒介するのは社会。その社会がすっぽり抜けてきみとぼくが世界と直結している。自意識の及ぶ範囲内のみ世界であると認識する。とかなんとか。
検索するとでてくる。セカイ系。
個人的には社会の存在とか視線とかを、妄想かもしれないが、チクチク感じて、いっそのことセカイに住むことができればなどと思うのだが、しかしそれは危険かな。


横山光輝『三国志』

ryubi.jpg世の中のマンガには二種類あって、それは読み返したくなるマンガとそうでないマンガだ。
そして僕にとって、横山光輝の『三国志』は全くもって前者である。
それを分けるのは、絵が上手いとか話が良いとか、もっと言えば良いマンガであるかなどとはあまり関係がない。単に僕個人の嗜好としか言いようがない。
想像するに、それは小学校低学年の頃、マンガを読み始めた時の環境に因るところが大きいように思う。その時に身の回りに置いてあって、自然と手を伸ばして読んだマンガが、僕の好みや世界観を形成していったのだ。『美味しんぼ』しかり、『まんが道』しかり。大げさに言えば、の話。
ついさっき、『三国志』全60巻を、何とはなしに逆から読んでみた。正確にいうと51→60、41→50…というような感じで読んだのだが、そうするとだんだん面白くなっていくのに気づいた。
長編マンガは、最初はいいけど後半はつまらん、という図式で、ダラダラ長いばっかりで早く終わってりゃ良いのにというのがほとんど全て。なのである。
その中でも僕はひそかに、『三国志』は割と成功している稀な例なのではないか、と思っていたのだけれど、やっぱり前半の方が格段に新鮮で面白い。逆から読み返すとそれがよく分かって、少し残念。
しかしながら、淡々としてるから良い、とも言えるんだよね。『三国志』の場合は割と全編を通して淡々としていて、それが逆に強度につながっているのだなあ。