顔写真

 就職活動や(お)受験のような大事な書類などに貼付する写真などは、適当に自分で撮ったようなものはだめで、写真屋で撮ってもらう方がいいと言われている。他人と比較され、選別されるための顔写真は、その人が本人と判るというだけではなく、そこから嘘でも人格的な良さを感じさせなければならない。表情の問題によるところが大きいが、光加減や画質自体も影響する。
 だからといって、写真屋に行って撮ってもらうのも億劫だし、手元にはデジカメがあるのだから、私は大抵それを利用して自分で撮っている。それも、ただ面倒くさがっているだけではなくて、自分で作成した証明写真でも、なかなか良いように撮れるものだと思っている。もちろん、撮ってそのままトリミングしただけでは素人感の色濃いままであるので、修正ソフトで、背景に余計なものが入ったときは消して、明度や彩度、コントラストを微調整する。さすがに顔の造形までもは修正しないが、それだけでそこそこ使えるようなものにはなる。しかも、どんなに些細なものだとしても、自分の手によって一つの「作品」を作成したという、(クリエーターだからこその/とは思えない)達成感まで得られるのだし、また、自分の顔に自己陶酔できる人であれば、二重の意味で悦に入ることもできるだろう(私ではない)。
 写真屋でしっかり撮ってもらったものと、私が自分で撮ったものとを、注意深く見比べてどちらの写真が優れているか点数を付けるならば別だが、パッと見たときの第一印象で明らかにマイナスとはならない、私にはその程度の写真で充分だとも思うのだから。
 ちなみに、私の大学の学生証に載せられている顔写真は、中学生の頃の写真である。大学一年の時でさえ、6歳も若い顔写真が、学生証にプリントされていた。なぜか。入学手続きを行う頃、私の提出物に不備があったのだろうか、大学から、顔写真を至急送れとの連絡が実家に入った。しかし、その時私は実家に居ず、代わりに母が、私の机の中に私の顔を見つけたのだろう(だがその若さには気が付かなかった)、その写真を送った。大学は、すぐさま学生証を発行した。
 現在と比較すれば、9年も前の、私である。


ふと思い出す

 私が浪人生として美術予備校に通っていた頃のことだ。ある日、昼の休憩時間になって予備校を出て、昼食を取りに行った。いつもなら近くのコンビニで買うか、そこら辺に食べ物屋はいくらでもあってそのどれかで済ませていた。その日は、どういう気の持ちようだったか、特に当てもなくふらふら散歩がてら歩いていた。10分くらい歩いて、ショーケース内の料理のサンプル模型もほこりにまみれているような、いかにも流行ってもいなさそうなうどん屋に入った。
 そこには外国人が一人、いた。白髪も混じるくらいの中年の白人男性が一人で、昼間からビールを飲んでいて、しかも程よく酔ってもいるようなのだった。そのうち、ビールのおかわり注文しようとして、店員を呼びかけたとき、ふと思い出したように、グラスを掲げて「これの空気を抜いてくれ」と言った。「いや、私の国では飲み物のおかわりをすることを『空気を抜く』と表現するのだ」ということをうれしそうに長々と説明していた。
 私は、もう何十年と日本に住んでいるような、ほとんど違和感なく流暢に日本語を話すこの中年外国人が、しかし精力的に働くビジネスマンのようには到底見えないし、それ以前に一体何をしている人なのか、さっぱり想像が付かなかった。
 美術予備校の中で行われていることも、やっている方は真剣だが知らない人から見れば全く不思議なことをやっていて、建物の外とは別世界が繰り広げられているのだろう。だがそれとは別種の異次元感のようなものが、そのうどん屋にはあった。街には外国人も、飲食店もありふれていながら、その中でも少し寂れた店内に、よくわからない外国人が一人居座ることによって、外とは明らかに異なる、安閑としてどこかぬるま湯に浸かっているような奇妙な空気が流れていて、やけに印象付けられた(思えばその街自体が異次元的世界の積み重ねによってできていたわけだし、また、田舎出の私はそのほとんどを知ることもなかったのだが)。
 それから、この光景とその場の現実感のない雰囲気は、「空気を抜く」という表現とともに、私の記憶にこびり付いて取れることがなくなった。私はふとした時その外国人を思い出すのだ。


おかわりを

 ミスタードーナツへ行った。コーヒーとドーナツ一個を買って席に着いてまもなく、男性の店員がポットを持って店内を巡回し、あちこち客のカップにサービスのおかわりのコーヒーを注いでいた。すると、たった今座ったばかりの私の所にもやって来て、「おかわりいかがですか?」と聞かれ、私は驚いてしまった。一口すすっただけでまだまだたっぷり残っていたコーヒーカップを見れば、今おかわりが必要かどうか、はっきりわかりそうなものなのに。
 もしその時、「おかわり下さい」と答えたのならば、彼は、ほとんど減っていないコーヒーを、さらにカップのふちまでなみなみと注ぐつもりだったのだろうか?さもなければ、「おかわり」という語の本義に則って、私はそう言ってすぐ、カップ一杯のコーヒーを一息に飲みきり、空のカップを差し出さなくてはならなかったのだろうか?


ずれについて

 前回いかにも大変そうに金工の仕事を書いたが、実際のところ私のやっていることなど、作業や技法としては大したことではない。誤解もなかっただろうとは思いつつ念を押せば、私は鉄の塊と格闘して、なにか重厚な彫刻作品をつくろうとしているわけではない。金属にしかできない技を見せるとか、鉄ならでは表現だとか、そういう類のものはほとんど求めていない。そこそこ精密な加工が可能であることと、ある程度の重みに耐えられるような強度が必要であること。この条件を満たせば、とりあえずは何でも良かったが、例えば木材などは逆に扱いが難しい。
 この度が初めてというわけではないが、完成品は工業製品みたいな仕上がりになればいいとは思っている。そして苦労しているのもその点で、真っ直ぐに線も引けないし、長さをきっちり切り取ることもできない、人間の手先の不自由さを呪わずにはいられない。それでも、最も微細に力加減できるのが、まさにこの手、あるいは指先なのであって、神経が行き届く限りは、精度を高めようとする。そんなとき、防護のために常時はめている皮手袋なども、神経を集中させた指先には邪魔に思えて仕方なく、ほとんど無意識に外している。間抜けさも一緒に報告すれば、そのとき削ったばかりで熱を持った部分に触れたりして、火傷したりする。
 ただ、よく言われることとして、正確さを期しながらも抗いがたく生じてしまう人間的ずれも作品には必要なのだという考えがある。その時受けた火傷も作品に何がしかの現実性を付与する、と。それがなければ、制作などせずとも、頭の中で完結するし、あるいはある程度の文章として済んでしまう。それは一見正しいように思えるし、実際正しいのかもしれない。しかし私には、そこをまだ保留にしておきたいと思う気持ちが少しある。正直わからない。すべての工程を思い通りにこなして、偶然性さえも操作してできる作品は、やはりつまらないのだろうか。そんなものは絶対つくれない、と極めて真っ当だがやはりありきたりな結論に行き当たることは避けられないとしても。


体力がない

 そんなわけで昨日は歩くことも立つことも、極めて最低限度にしか行わなかったのだが、たった一日だとしても一日使わなかった筋肉の衰えなどはいかほどあるのだろうか。そんなことを思わせるだけの軽い筋肉的な疲労感を、いまは覚えている。決して今日一日活発に動き回ったわけではなく、普通に立ったり歩いたりしていただけで、どちらかといえば人よりも安静な方だったように思う。もしかすると、いまの私には本当に最小限の体力しか備わっておらず、例えば二日も寝たきりで過ごせば、もはや立ち上がることさえもできなくなってしまうのではないだろうか。ありえない話ではない。


日曜日はまたしても

 日曜日なので家に宿題を持ち帰って何とか終わらせたかったが、これまでもできたためしがなかったように、今日も何一つ手をつけなかった。これはもう、実は我が家が風水的に良くないようになっていて、知らず知らずに気力も吸い取られているのではないかと思いたいほどだ。むろん本人が怠慢なだけだが、そのくせ何もできなかったという後悔だけは強く持つので、全く働かなくても精神的にはしっかり疲れてしまう。


危険とともに

 溶接法にも色々あるが、今私が行っている溶接はアーク溶接というらしく、電気を放電させ、その高熱によって金属を溶かし接合するものである。放電によって強烈な青白い光線が発せられる。紫外線の量も相当なものらしい。確かに数時間作業しただけでも繊弱な私の肌質には負荷が強く、軽く日焼けをしてしまい、一日の終わりには顔がひりひりする。最も注意しなければいけないのが、光線を直接見てしまうことだ。とても目を見開いて耐えられるというものではない極度の光を、誤って裸眼で直視してしまうと、目がつぶれて最悪の場合には失明に至る。また、言うまでもなく過剰な紫外線は癌の基だ。
 金属を切り、削る。その時大量の鉄粉が散布され、空中を浮遊しているだろう。私は、それら目に見えない鉄の微粒子の、マスクの隙間から入り込み鼻口を伝い刻々と肺に蓄積していく、やがてびっしりと附着した鉄粉が錆び肺を腐食していく、そのイメージが、ありありと脳裏に浮かんで止むことがない。僅かに救いがあるとすれば、既に相当量の鉄を吸い込み、また紫外線を浴び続けてきたであろう金工を担当する教官の、あれだけピンピンしている様子である。少なくとも速効性のある害はないことが判り、ようやく気を取り戻せるのだ。
 扱うものが堅固な金属であるだけに、それを加工する機具は破壊力に満ちている。過失にせよ故意にせよ、人間にその矛先を向けるとすれば、脆い人体などたちどころに粉砕してしまう。隣にいる人が、そして自分自身が、ストレスフルな制作に行き詰まり、発狂し、行動してしまわないことを願う。
 私は今、穏やかならぬ危険と隣りあわせで制作している。虚弱気味な心臓を持つ私にはそう感じられる。冗談ついでにひとつ問うてもいい。だが、果たして死を意識しない制作など存在するのか、と。


土曜日のコーヒー

 土曜日は週末であって平日ではない。かといって完全なる休日ではない。週休二日になる以前、私が小学校に通っていたときも授業は午前中で終わりという中途半端な日として土曜日は習慣付けられていた。その中途半端さは中学、高校は言うに及ばず、果ては大学でも継承されている。
 今日も学校のアトリエは5時で閉まり、時間が来れば警備員が学生らの帰宅を促した。
 それから、学校から少し下ったところ、13号線沿いのガソリンスタンド内にあるドトールに行き、コーヒーを頼んだ。そのときちょうどそれを切らしていたので、新しくコーヒーを淹れるから少し待てとのこと。だから、すぐにサーブされるはずの最も安価なブレンドコーヒーを、しばし待った。そうして出されたものの風味を確かめた後、うむやはり淹れたては香りが違う、などと特に思ったわけでは、ない。
 そうではないが、こうして日記に書かれるのは、今日一日を振り返ってみた時に、他の日との相違点として辛うじて思いついたことが、淹れたてのコーヒーにありついたということであったからである。それだけ変化に乏しい日々を送っている。