サマータイム

なんという凡ミス。サマータイムに気付かず、朝のミーティングに遅れてしまった。太陽を少しでも多く浴びようと制度として時間を早めるという、その習慣のない日本人ならばこそ、いかにも有りがちな芸のないしくじりはすまいと留意していたはずなのに。恥ずかしさのあまり何も手に付かない、動揺を隠し切れない。
それにしても、既に前日の日曜の時点で、時は1時間早まっていたというのに、何故それを示唆してくれるものに出会わなかったのであろう?地下鉄にも、バスにも、図書館にも、イケアにも、学校にも、行ったというのに。ただ一人1時間遅れで、しかし、何の支障もなく過ごしている愚行――けれども強気に裏返せば、1時間程のズレならそのままでも大差はないことを示している――も、思い返せば恥ずかしいが、明日には忘れられ、夏時間にきっちり適応しているであろう。恥を思い出さぬよう、このミスはもはやなかったことにされつつある。
天気のことでも。近頃は、鬱屈した気分も払拭するような透き渡る晴天が続いていた。しかし空の青さと日の眩しさに騙されて、陽気な春の暖かさを取り戻した気になってはいけない。数字上の気温はまだ0 度を境に上下しているのに過ぎない。少しでも曇ればたちまち冬に後戻る。そして今日などは、およそ夏時間に相応しくない小雪が舞っているのである。


中国、講義を受けて

北京の中央美術学院から彫刻科の教授がゲストとして訪れレクチャーがあった。中国随一と言われる中央美術学院の様子、学生の作品、彼自身の制作風景や作品などを紹介するものであった。
まずは授業風景の一枚目で、西洋人は既に違和感を持ったに違いないが、スライドが進むにつれそれは決定的になる。教授の作品の番、写実をもとにしながらもボテロのように丸々とデフォルメさせた彫刻作品はまだ良いとしよう。彼が手掛けたというパブリックアートへと幕は進むと、映し出されたのは社会主義リアリズムの精巧かつ壮大な彫刻であり、さらに偉大なる毛沢東主席を称揚するモニュメントもが堂々と紹介された時、終始会場内に立ち込めていた釈然としない空気は、苛立ちにも近いそれへと変わった(ように感じられた)。
超絶技巧への反発によるお馴染みの批判はするまい。下手な職人に仕事は来ないのだ。注文を呼び込み生活の糧とするには、注文通り/以上の仕事を見せることを要求されるだろう。それにしても、この国の美術事情についてはほぼ無知に等しいが、そこにある複雑な、いや、単純な二極構造の存在は容易に察せられるというものだ。一方では欧米の文脈に乗っかろうとする現代美術の隆盛。むしろ今となっては彼のようなタイプは主流ではないだろうとは思うが、いずれにせよ、大学教育の前半では徹底した技術習得が課せられる。
「北京の学生のスキルはアメイジングだ」と締め括ったスウェーデンの教授の言葉を、素直に受け入れ謝意を表す中国人教授を、西洋人と共に冷やかに、さもなくば哀れみを含ませた目で眺めることは決して出来ないにしても、ではどのように見れば良いのか。


疲れた日であった

夜、こっちで知り合った留学生の一人がパフォーマンスをするというので観に行く。
――と、いきなり話は飛ぶが、日付も変わったその帰り道、全身に渡って実に異常ともいえる疲労感に包まれていたのは何故かと考えた。
思いつく訳を挙げるなら、伝えられた時刻よりも実際は遅かったパフォーマンス開始時間までの約1時間を、同行者らと共にボーリングをして過ごすにあたって、いやあ久しぶりなものでと前置きした後でいかにも軽くボールを放ってみせながら、その胸中では一本でも多くのピンを倒すことに全神経を集中させていたからである。あるいはこうも考えられた。その後に行われたパフォーマンス(に限らずいかなる作品であっても)を観賞する際に必然的に発生する身体的疲弊に加えて、クラブという不慣れな磁場のもたらす負荷の相乗効果は思いがけず大きかった、と。
否、記憶を遡れば、疲労の原因はそれだけではなかった。
その日(正確には昨日)の午前中、新聞に掲載されていたギャラリーにでも立ち寄ってみることを思い立ち、しかしその場所は当たりを付けた地点にはなく実際は反対方向にあったのだが、予想に自信があった分だけ随分長い間同じエリアを行き来してしまったのだ。倉庫をリノベーションしたらしいそのギャラリーは、新聞から受けた予想に反してインタラクティヴなアートを取り揃え、そこでの「対話」には疲れを募らせるばかりで癒されることはないのであった(ここでもインタラクティヴ作品だから、というのではない。いかなる作品も、観賞者には大小様々な身体的苦痛を要請し、と同時に優れた作品であるならば、その苦痛を忘れさせて余りある享楽を恵んでくれるのである)。
inte.jpgメインスペースには何やら光るものが象徴的に置かれているようだ。この空間、ギャラリーに仕立てようとしたのもわかる。辺りを見回しながら作品に近づくと、ギャラリーの人(もしくは作家本人)がその時になって、消すのを忘れていたらしい照明を、消す。辺りは急に闇に包まれ、作品は虚しく光を際立てる。はは、これぞインタラクティヴというもの、即座にそれを日記のネタとすることを思いつくが、あまりにしょうもないので、こうしてただ「疲れた」ということが、この日記の主題に格上げされたのである。


ドローイングなど

面談の時に、ドローイングなどがあったほうが説明しやすいなと思い、コピー用紙にボールペンや水彩などでさらさらと描いて何枚か用意しておいた。これはいわば事後的なドローイングで、(完成はしていないが)既に形になっているものを追随するように描かれたのだが、これが案外面白くて、面談後も継続して続けている。
思えばこの頃は、制作の前にドローイングをするということが、全くではないにしろ、少なくなっていた。何か作品のイメージを思い浮かべると、それを形にする為にはレディメイド――例えば、ホームセンターに売られる木材のようなものにしろ、レディメイドに違いない。木を切り倒すことから始めるのでなければ――の組み合わせにするしかないように思われたためで、端的に言って、どんな物なら売られているのか、ということが作品を方向付ける要素としては無視できなかったのだ。実際に形に出来るのかも定かでないイメージを、わざわざ紙の上に移し替えるという行為をそれ程必要だとは思わなかった。
今回、今さらながらごく当たり前のことを再確認したのは、事前であれ途中であれドローイングをすることで、確かにそれは回り道には違いないが、何かしらの気付きは確実にもたらしてくれる。同じことを追随するにせよ、一旦平面上を迂回することによる到達点は異なる。三次元のものを三次元で再現する場合に比べて、三次元上のものを、その情報量を保ったまま二次元に移そうと試みる際には、妙な戦慄を伴うもので、あるいは単にそのスリルを楽しんでいるに過ぎないのかもしれないが。


面談

前に書いた面談が今日あった。面談をしてくれたのはMagnus Bärtåsという作家で、今Moderna Museetで行われている『Modernautställningen 2006 (The Moderna Exhibition 2006)』という企画展にも参加している(この展覧会は、スウェーデンの作家49人を集め、スウェーデン現代美術の現状を俯瞰するものとなっている。これについては後ほど――書くのか?)。
特に良い話が聞けたとか、突っ込んだ議論ができたということはなかったのだが(それだけの英語力もないが)、過去の作品や今取り組んでいることを、一つ一つ丁寧に見てもらえたという印象があった。とはいえ、今までの作品のファイルを順番に見ていっても個々の作品の関連が薄くとにかく一貫性がないので、横で説明を挟みながら自分で見ていて、どうにも始末に負えない感があって頭を抱えてしまった。わかってはいたが改めて思う。
今取り組んでいることに絞って見せれば良かったかもしれない。全部を並列に並べる必要はない。でもまあ、そのつもりではあったのだが、一応過去の作品ファイルを渡すと、時間を掛けてじっくり見てくれたので止めるわけにもいかなくなってしまった。それ自体は有難いことではあったが。
Magnus氏は非常勤で大学で教えてもいるようなので、また後日に機会があって話せれば、と。


何でそんなに…

以前、アトリエで寝ていた時のことだ。思いのほか早い時間に現れた彼(ゴッホ君)は、アトリエに布団を広げ横たわる外国人(僕)を見るや、一瞬の驚愕の後、旋風を巻き起こさんばかりの勢いで扉を閉めた――それは、床に横たわる視角からは到底見えるはずもない場面であったが、耳に届いた戸締りの響きは、何か見てはいけないものを目にしてしまったかのような――念を押すが、ただ寝ていただけだ――、彼が敏感に察知したらしい救い難いやましさを如実に表していた。
一体何がそれ程までに彼を飛び退かせたのか、聞くに聞けず知る由もないが、恐らく、彼は繊細過ぎたのかもしれない。しばらくして現れた彼に、やあと声を掛けると、彼はなんと侘びの言葉さえ口にした。僕は居た堪れなくなって視線を落とす。と、そこに立て掛けられた彼の、描きかけの作品に気が付いた。その制作の行程から、彼は朝九時からの講義を絵具の乾燥時間に充てようとして、それまでに絵具を画面に盛り付けたかったこと――なるほど僕にしても人の振舞には敏感な性質である――、その為に誰よりも早く登校してきたことを了解したのであった。しかし、気を使い時間を置いて戻ってきたことで、朝の貴重な時間が削がれてしまった。何よりも僕は、そのことに申し訳なく思う。この一件があってからは、僕は、せめて彼らが来る前には起き上がり布団を片そうとの思いを強くした。


わだばゴッホになる

game.jpgこの前の展示の中で、妙に異質に見えたのはこのレトロなゲーム機であったのだが、その作者は僕のルームメイトの一人なのであった(その風貌がオランダの画家を彷彿させることから、僕は心中密かに「ゴッホ君」と、敬愛を込めて呼んでいたのだが)。
はてさて何処から買ってきたのやら、暇があれば懐かしのゲームに勤しむ彼をどこか微笑ましく見ていたが、実の所それの工作がほぼ全て彼の手仕事によるもの――どこから見ても工業製品並みの出来!誰もが言われるまで気が付かない――であることを知った時には、その信じがたさに舌を巻くしかなかった。ちなみにインストールされているゲームは十数ほど数えられる。どれも実に単純なものであるが、ゆえに、画面に向かうプレーヤーの形相は異様な熱を帯びるものになるのだ。
ゲームを引用するにしても、一部分のみをサンプリングして取り出すか、あるいはもっと単純に、手作りならいかにも手作りの完成度の低さを持ったときに、ああこれは現代美術であると安心して(?)見なされたであろうに。彼の作ったゲーム機の執拗なクオリティといえば、観客に、どうぞ自由にプレイして下さいと媚びる様な甘いものではない。コイン投入口を設け代金をきっちり回収している。通りすがりの人はこれが作品であるとも露知らず、ごく普通にゲーム機としてプレイしていく。
本来のゲーム機その物に限りなく近づいた時に、果たしてそれはなお美術であり続けるのか、の問いはここでは愚問であるだろう。それを受入れるだけの度量の広さを持つのが現代美術というものではあるが、まあその場所に留まる必要もない。なぜなら、実は彼はペインターなのだから。ゲームと絵とどっちの作品をメインに据えているのかを尋ねたところ彼は頼もしくもきっぱりと、絵画である、と言い放った。その宣言に僕は、表題に挙げた棟方志功の言葉を、ふと重ねてみたくなるのであった。


地下鉄の改札

metro.jpg地下鉄に乗るには最初にカード(定期券)を通せば、降りる時にはそれを提示する必要はない。その便利な(甘い?)システムを利用してか無賃乗車を決行する者を、少なからず目にする。やり方はこうだ。足を突き出しつま先で奥のセンサーに感知させると回転バーを手前の方に廻すことができ(つまり降りる時は自然にセンサーの前を通るのだが)、そうやって手前に引いたバーの隙間に体を滑り込ませれば通り抜けることができるのだ。もちろんその不正行為には駅員は気付いていないはずもないが、一人では阻止できぬだろう、目を瞑るより他はない。
事の前に駅員にチラリと目を遣るところを見ると、少しは罪の意識もあるのかもしれないが、しかしよくもまあ器用にやるものだと感心するが、その動きは巧妙にやればやるほど滑稽にも見えてしまう。実はこの技はこれで結構コツを必要とするのである。足を前方に、と同時に、バーをこちら側に引き寄せる為に上半身を上手に反らねばならぬ――何故それを知ってるのか、もまた補足して説明しなければ具合が悪いであろうか?「見てればわかる」で済むものを…。
夜遅くには電車の本数も少なく大抵は十数分の待ち時間を過ごさねばならないが、夜の風は冷たく時に雪も混じる為、ホームには出ずその一歩手前、駅構内の改札の辺りで人々は電車を待つのである。そう、そのぽっかりと持て余す退屈なひと時を、改札の仕組みを確かめながら潰した日もあった――定期券を所持していることをそれとなく駅員にアピールしつつ。