まもなく日本へ/で

さて、そうしようと思えばいくらでも綴ることが出来るであろう、これまでの旅行を通しての語りは、まだ記されてはいない。それを始めるにあたって、しかしながら、果たして誰に向って語られるのだろうかという疑問を、小さな問題であるとはしない。
仮に、それが奇跡的に素晴らしい経験だったとしても、である。文章に書いてみたところで、何処にでも転がっているありがちな旅行記や体験談の類と言われかねないそれは、いったい何のために書かれ、また誰が読むのであるのだろうか。否、実際に誰かに読まれるかどうかには頓着していない。その貴重な経験を駄文に貶めることが恐い。
だがそれでも、記すことは選ばれるであろう。書く書かないの選択ならば、それが何であれ書いた方が良いと、半ば盲目的に信じて。
プロバンスのセザンヌやらパリのルーブルやらを筆頭にその他諸々のものを見た興奮の熱はまだまだ下火にはならないようだ。が、さりとてそれは、帰国前の、惜しむべき時間をだらだらとキーを打つために潰すことはしたくないのであるから、日本に帰ってから、記憶をすくい上げるような、幾つかの断章として記される。そうとしつつ、その実、帰国後にまだそれを記そうとの熱を持続しているかは知りえぬ――ストックホルムの麗らかな日の光と、「さよなら」の気分が、この興奮を消しはしないが覆いかぶさる――ため、こうして今のうちに、後々書かざるを得ないように仕向けるべく、予告として。


ストックホルムの町並

まだストックホルムにいる。だがもう数時間後にはノルウェーに向うであろう。そう、またしばらくストックホルムを離れることになるが、とすれば、実質もうこの町に滞在する日数は、片手の指を全て折りきらないうちに数え上げてしまえることが残念でならない。
高い場所に登ること。どこの町でも全体を眺望する高くしつえられた場所があるものである。先日行ってきたヨーテボリでは、丘の上に建てられた教会がそれであった。高く鳥瞰の視点から町を広く見渡すことが出来た時、人はなぜ自分の寝所を探そうとするのか。スウェーデン第二の都市ヨーテボリも良い町であったが、そこにはいくら目を凝らしても自分の家は見えなかった点で、ストックホルムとは決定的に違っていただろう。
ストックホルム市庁舎。かつて留学生対象に行われたレセプションに参加した、というよりそれ以前に、あまりに有名なノベール晩餐会会場として先ず知られる場所である。その町のシンボルと言うにはやや地味なつくりだが、そのシルエットの一つの特徴を成す塔部分、この場所には頂上まで上ることが出来る。この建物には例のレセプションの際にたった一度訪れたのみであったが、昨日の再訪(これは観光として)のついでに、ようやく塔に上ってみた。多くの観光客が集まる最中、高を括っての階段上りではあったが、最上部分にたどり着き外に出た瞬間、足が震えた。高さにすくんだのではない。そこから望む町の、全てに調和の取れた佇まいが、あまりに優美であったからだ。ストックホルムの旧市街ガムラスタンはまさに水に浮かび、そこが水の都であることを文句なしに首肯させるのであった。
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ストックホルムに着いた当初抱いた感想を日記に書いている。待ち合わせ時間に遅れ一人取り残されたにも関わらず、全く不安にならなく、その不安にならないことが何なんだろうか、というように書いた。今ここで思うのだが、この町に対する、何なんだろうという印象は実はそれほど変わってはいない。言うなれば、高々半年、所詮は表面しか見てはいなかったということでもある。だが、それでもあえて、町を歩く人々がこんなにも幸せそうに見えるこの町は何なんだろうか、と書いておく。


ユーレイルパスで

日本を発つ前にユーレイルパスを購入していた。21日間のを買っていて、その日数の期間ヨーロッパの鉄道が乗り放題になる。今までは使うタイミングがなかったのだが、もうこの帰国前の最後の日数で使うしかないだろう。それで、旅行の計画を考えていたのだが、なんとなくルートは見えてきた。
11日に展示の片付けなどがあるので、その前に日帰りで行けるスウェーデンのヨーテボリなどに。片付けを終えたら、本腰を入れて周遊に出かける。まずは、ノルウェーのオスロに。そしてフィヨルドを見に行く。そして南下して、デンマーク、コペンハーゲンに。
その後はフランスに行こうと思う。実は今年はセザンヌ没後100周年らしく、セザンヌの結構大きな展覧会がフランスで開かれているようだ(詳細はこちら)。これは実はムチャクチャ楽しみにしている。
その後はスウェーデンに戻る途中で適当に観光して、一旦ストックホルムに帰った後、豪華客船でフィンランド、ヘルシンキに(これも本当はパスでタダになるはずが、予約の時ミスって幾らか支払うことに)。
それで、もう本当におしまい。今月末に飛行機に乗って、日本に帰る。


好き/気に入る

英語の動詞「like」について思う。この言葉に含まれる意味の範囲は結構幅が広く、「好き」だとか「気に入っている」とか、あるいは「まあ悪くはない」というような加減でも、「like」で済ませてしまうことが出来るようである。だが「like」一語に括られる「好き」と「気に入っている」は、それが異なる言葉である以上、確かに違いがある。例えば、昨日僕は、プーマの直営店でストックホルム限定のTシャツを買ったのだが、その理由は「I like it」には間違いないのだが日本語に変換するならば、そこでの「like」は「気に入った」としたい。背中に「STOCKHOLM」と書かれているそれを日本に帰った時にでも着れば、一時期そこにいたというアイデンティティ――になるはずもないので、それを逆手に取ったある種のジョークとしての身振り、ポーズ―― を示すことが出来るというような面白みを気に入ったのである。そのようなわけで、決してそのTシャツのデザインが特に好きだというわけではない。またどちらかといえば、「like」は日本語の「好き」よりも割りに軽いニュアンスで使われ、そうした気楽さは例えば「love」というような語にもあって、日本語に訳したその言葉の気恥ずかしさや重々しさはなく、英語のそれは臆面もなく発せられる。
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Konstfackでの、留学生による展覧会は無事にオープニングを迎えた。制作の成果のお披露目といったところであるその展示において、僕は自分の作品を設置して、見て、その時初めて自分の作品を好きになったと思った。(そう、その時展示しての感想を人に聞かれて答えた「I like it」ではそのように翻訳される。)
だが実を言えば、同時に、恐らく前々から持っていた「気に入っていない」という感情は依然としてあったとも言える。というのは、この短期留学での制作で出来上がったものを、考え方としてのみならずもっと直截的な作品形態の上において、いわば制作スタイルとして、今後も継続できるものにはならないだろうかと考えていたからだ。あるいはもっと下品に言えば、来年の卒業制作にそのまま応用できるような成果物として位置付けられないだろうかという、矮小な期待があったからだ。残念ながら、その意味では、この作品が僕の気に入る所にはないかもしれない。
だがそれにも関わらず、この作品自体は好きに思ったのである。日本語でも臆面もなくこのようなことを言ってしまっているのだが、しかしそれは、作品がそこそこの強さを持っていたこと、ゆえにそれが自立しているという意味で、既に作者の手を離れていることを認めたからである。それは展示をして初めて気が付いた、少なからず驚きでもあった。