「untitled(window)」についての覚書

この作品の制作にあたって基本的なモチベーションとなったものは幾つかあるが、一つは「窓」というものに対する興味である。とりわけ、ストックホルムで使用されるものもそうであったが、北方の、厳寒の地域に特有な「二重窓」に魅力を感じる。二層構造の、単純に物としての洗練されたかっこ良さや、開閉時の機能的な仕組み。あるいはガラス上の汚れが層状に重なり合う、空間的な見え方、二重にぶれつつ生じる映り込みの像。さらには、窓を外部と内部の空間を分ける境目と考えた時に、この窓自体が持つ間の空間とはいったい何なのかなどと、絶えざる興味を引き起こされる。その「窓」をモチーフとして制作は始められた。
また、制作にあたって同時に考えるのは、制作過程その時々において、「環境」が要請する作品素材の状態や形態と、それによって生み出される表象、それぞれの関係性である。ここでの「環境」とは、例えばスウェーデン/日本、社会/アトリエといったローカルな場を指すのではなく、もっと根源的な、言ってみれば「この地球上」というような意味での環境と捉える。その一つとして、地球上の一切の物体に働く「重力」がある。当然のことながら、私たちが地球の重力を受けて、地に足をつけないでは歩けないのと全く同じように、およそこの世界で制作された美術作品の中に、重力の支配下から逃れた作品などはない。作品は重力によって規定される。ゆえに「水平/垂直」もまた美術史上において大きなテーマであった。絵画は垂直に立てられるという事実に、無自覚であってはならない。
ならば、その重力の働きによって規定される制作プロセス、そこでの作品状態を抽出して思索すること。フレームに囲われたガラスの表面には、埃が付着している。そのことはガラスがある一定期間、水平状態にあったことを意味する。例えば、ジャクソン・ポロックの絵画を思い起こしてもらえればいい。ドリッピングという技法、そこでは水平方向に寝かせられたキャンバスに対し、垂直方向に働く引力によって絵具は滴り落ちる。水平面と鉛直方向の重力に絡め取られるポロックのアクションを思い浮かべたならば、ここで、絵具の顔料を埃の粒子に、キャンバスをガラス板に、それぞれ置き換えたとせよ。
そこに派手なアクションは付随しないが、埃を素材としてガラス上に形象を描く(ガラス表面の部分をマスキングし、後に剥がすという方法を取る)、そのために、一旦は水平状態に置かれなくてはならないことに着目する。いや、そもそも平らな物体であれば、水平に寝かせて置く方が物体としては安定するという原理。ガラス板の形状は、横に臥すことを自ずと要求しているとも言えるかも知れない。
作品は、しかしながら、再び垂直に立ち起こされる局面に出会う。垂直に立つことが作品形状として不安定な状態であるのにも関わらず、わざわざ、である。ならばむしろそこに作品成立の要件を見出すべきであろう。埃のシェイプを描き出したにせよ、それをそのまま水平に寝かせたままでは、更なる埃の蓄積に晒されることになる。なお長い時を経るならば、一度表出したイメージはもはや埋没し消失してしまうだろう。イメージを定着し作品化するには、やはり、直立する必要があった(立ち上がることによって埃は落ちるのではと訝しむ方もいようか。その通り、多少は落ちる、が、静電気によってごく微細な埃は依然として定着する)。垂直に起立することによってこれ以上の蓄積は止まり、イメージは残されるのである。
もう一点。「窓」の持つ機能の一つは、建物の外界から室内に自然光を取り入れることにある。この作品においても、私は、作品内に光を収得することを試みた。この作品が展示された場所は、時間帯により、高い位置に設けられた天窓から強烈な光がたっぷりと差し込む空間である。その光線が作品群を通過する際、フレームによって生み出される影のラインと、ガラスに反射されてできる光のラインが、交差する。
ある一定の時間内の現象だが、この「光/影」の生み出す視覚的効果が強い印象を与え(こうした写真を残すことによっても)、この作品の性格付けをするものとなっているように思われる。恐らく、時にそれは「水平/垂直」の意図を隠すまでに。しかし、この外部からの要素を排除することも選ばない。もともと「窓」は、そのようなものとしてある。


ともあれ更新のために

前に学校のHPかなんかに載せる「留学体験記」みたいなものを書いて欲しいというので書いた文章(ぜんぜん「体験記」じゃないけど)があるのですが、ここに転載します。内容はともかくただ更新のために。
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スウェーデン美術、「Sound and Vision」から
 留学中、スウェーデンの美術とはどのようなものだろうかと考える中で、幸いにも多くの作品を観る機会がありました。しかしそれらを総括して、「スウェーデンの美術はこうである」と大上段に構えたような結論に導くのは到底出来ないですし、また、さほど意味もないでしょう。ここでは、印象深いと思った作品を一つ取り上げ、スウェーデン美術の一辺として、一つの契機として、考えてみたいと思います。
 ストックホルムの美術大学、コンストファックで教わった先生の一人に、フェリックス・グメリンという美術作家がいます。彼の、第四回ベルリン・ビエンナーレ(2006年)にも出品した作品に、「Sound and Vision」という、映像を使用した作品があります。プロジェクターによってスクリーン上に映し出される映像は、次のような内容。直立する若い全裸の男女を、顔から乳房、性器に至るまで、中学・高校生くらいの年齢の生徒らがたどたどしく接触していく。傍らでそれを促すのは、教師と思われる女性。裸の、微動だにしない男女が、何人もの生徒に取り囲まれる中でゆっくりと触れられていく、その光景を見るとき、私たちはある種の異様さを覚えることになる。実は、男女の体に手をあてがう彼らは、盲目なのです。1970年のスウェーデン、盲目の生徒への性教育を撮影した映像。これが、この映像の真相です。しかしそこでの行為に奇異の感を抱かせるのは、恐らく健常な視覚を持つ人の感受性に他なりません。現在、性教育としてそのような体験を経ることは決してない私たちが、社会の中にこの光景を見出すことは出来ないのであるから。二重に隔たったこの映像を、違和感なしで見ることの方が無理がある。そこに作者の意図もあるでしょう。
 とりわけこの作品は、私たちに、盲目者の(そして私たちの)、「性」の感覚、権利、制度、教育のあり様などといった諸問題を問うている。彼らの行為の意味を了解した時、作品は確かにその問題について考える契機を突きつける。と、しかし一旦そうと認識したのならば、なんだこれもよくある社会派作品の一つね、と、そう済ませて作品を後にしたいところです、本来ならば。だが私はそうすることは躊躇われた、ならば、それを引き止める根拠はどこにあるのでしょうか。
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 それは、性と社会に対する薄っぺらい道徳観から、ではありません。それは、その社会的文脈を抜きにした、美術の優れた古典に対峙した際にも引き起こされる、恐らく美術の最も美術たるゆえんである、ある種の恍惚とした印象を、その作品を前にしたときにも享受されるから。それに尽きるだろう、少なくとも私はそう思います。
 言わばその映像は、性教育云々である以前に、したたかに「美術作品」であった。この言い方では順序が逆に聞こえるでしょうか。映像が、「作品」に、なるのではないのか、と。いえ、ここでは、映像として記録されるよりも前から、既に作品になりうる要素を孕んでいただろうと考えられます。というのは、例えば人がくすぐられているのを見るだけで、自分の体に触れられたようにくすぐったく感じるという経験が誰にでもあるように、それと同様、盲目の生徒が恐る恐る人肌に手を触れる様には、映像内の他人の手でありながらも、人体の触覚的な手触り、量感をぞくぞくと喚起させられることでしょう。つまりそこにおいて、性教育という文脈を取り払ってしまえば、人体の有機的なフォルムを、盲目であるがゆえの恐ろしいまでに繊細な触感と共に彫りだす、極めて彫刻的な行為。と、そのように私の目には映ったのです。
 性教育の記録映像であると同時に、既に内包している美術的なもの、作者はそれを、(意図しなかったとしても)敏感にすくい上げた。そこに、美術としての不思議な感覚を催させるからこそ、上述の、作品の主題としての社会的な問いかけも、強固なものとなる。あるいは、社会性の強いテーマを掲げながらも一元的にそれのみに回収されない、その地点に立って初めて、この作品が優れた、社会に有効たりえるものとなるのかもしれません。
 繰り返しますが、フェリックスの作品を取り上げて、性の問題という社会福祉的な観点を捉えているから、いかにも福祉国家スウェーデンらしいと、その国の現代美術の全てを代表させたいわけでは、当然ありません。ただ、スウェーデンの社会が、自らの社会に対しての強い関心を持ち、厳しく直視している、ゆえにその反映として、なるほど社会性の強い主張を持つ作品が多いことも事実であり、むべなるかなと思うところはあるのです。しかし、むしろそれよりも、社会性云々といった単純な意味づけに回収されないこのような作品に、私は興味があるし、そこのところは、一般には社会福祉や北欧デザインといったイメージのみが先行しがちな、スウェーデンという国に対する関心事としても同様です。