11月も終わり

 11月も今日で終わりとなった。近頃は本当に変わり映えのない時間の使い方をしている。大体昼くらいに学校に行き、1時間かそこら本を読んだり、ネットを見たりする。そのうち空いてきた学食で昼食をとって、また本の続きを読んだりして、ぼけっとした感じで過ごす。4時くらいになったら、金工の作業場に行って制作する。制作に入れば後は休憩もなく、9時か10時までやる。終われば帰って飯食って寝るだけだ。
 制作を開始して、もう今ではだいぶ集中力を取り戻した。もっと長い時間でも緊張感を切らさず制作に打ち込むことはできるが、今はまだ制限している。制作以外にもやらなくてはいけないことがあるからだ。そして、もう12月だけれど、まだ12月に入ったばかりだ、とも言えて、後々どこで力を使い切るかを見据える必要がある。今はそれなりに体力セーブの時期でもあるのだ。


寛大な措置――卒展について[番外]

 東京、上野で行う卒展(という名のグループ展)に向けての展示企画書を出品者全員が提出して、展示を取り仕切る代表者の検閲が入った。すると、あろうことか私個人の展示内容にだけ「待った」が掛かった。問題は「壁にビスで留める」という点で、美術館の壁は当然、ネジでも釘でも直接打ち込んで重いものでも設置できるような造りにはなっているはずなのだが、しかしその美術館を借りる際の決まりごととして、壁に穴を開けないというように話が付いていたというのだ。とりあえず詳細な展示内容を、一度美術館に送って、許可がもらえるか問合せをするとのことで、その手続きを委任していた。
 私の作品は半立体のようなもので、壁に直接設置することを前提に構想された。物も、つくる本人の思考もそれほどフレキシブルではないので、例えばワイヤーで吊るすのはどうかだの床に置いてはどうかだの代案を出されても、この作品ではそれはありえないとしか考えられない。だから、もし許可が下りなければ、出品は見送りとなるだろうと思っていた。
 それで納得が行くのかと問われたとしても、しょうがないだろうとは思うのである。(恐らく)純平面作品が並ぶであろう会場内に、このような専攻を間違えたと目されかねない半立体作品が混ざらない方が、展覧会としてはまとまりがあって良くなるのではないか、とさえ思われるのであった。ならば、ここは積極的に退くべきか。なかなか口には出し難い、積立金の全額返金を受けての撤退の、その大きな理由ができつつあることが、私にそのように思わせていることは否定しない。だが何よりも言わなくてはならない、私にとっては、この制作は山形での卒展に向けて行われるもので、その主目的に比すれば、東京で、しかも不本意な形で展示することの意義はやはり小である。
 
 であるから、私は、出品者側と美術館側との関係が悪化するくらいなら、そこまで私のこの展示を押さなくても良いと考えていた、その問合せの返答が、昨日来た。許可する、と。私に代わって連絡を取った代表者の奮闘と、美術館の寛大な措置に感謝したい。何だかんだ言っても、これがベストな収まり方には違いない。


Jackson Pollock: Interviews, Articles, and Reviews

jacksonpolloc.jpg 以前、Amazonで買った電子辞書(二代目)の還元分2000円のギフト券が、(メールで)送られていた。還元されるのはうれしいが、今月いっぱいの期限付きでもあることなので、早く次の買い物を、と急かされているようなものだ。しかし何も利用しないのも損なので、そのマーケティング手法に乗せられるまま、何か2000円程度の商品を探したのだった。
 差し当たって欲しいものもなく、かといって心行くまで吟味をするほどの時間の余裕もないので、適当にキーワードを打ち込んで、目に入ったのを注文した。
 そして昨日配達されたものがこれだ。「Jackson Pollock: Interviews, Articles, and Reviews」という、MoMAがポロック展に際して刊行した、ポロックに関する文章を集めたものである。
 お判りの通り、打ち込んだキーワードはそのまんま、「Pollock」で、安く手頃な画集か論文集がないかなとちょっと試したのだった。ほぼ想定通りのもの(2126円)にヒットしてしまったので、のどから手が出るほど欲しいというわけじゃないにしても、買わない理由もないようなものなので、購入に至った。
 しかし不幸にして、依然として英語の文章をスラスラと読めるのではない。これだけの分量の英語を読むには、先んじて買った電子辞書と共に膨大な時間を掛けて、読解に励まなければならないが、果たしていつになれば取り掛かれるだろうか。そういえばスウェーデンで買った洋書もいまだ一度もページを繰られることなく、表紙には薄らとほこりが積もっている。


鉄の工作

 短絡的に言ってしまえば、鉄は、扱い易い素材である(もちろん仕事内容によっては相当な技術を要する)。ちょっと溶接してしまえば、好みの形に固定できるし、強度も簡単に得られる。初心者なんかは、入門的な素材のいろはを覚えると、ちょっとした工作欲求が湧いてくるものだ。ゴミ捨て場に積まれている鉄板の切れ端や棒材などを見ると、けちな思考回路が働いて何か利用できないかと考える。その初心者は、今日、アトリエの机の上に置く本立てを作った。細長くカットした鉄板をコの字型に溶接しただけだけれども。


卒展について2――誰が100号と言ったのか(作品規定)

 卒業単位を取得するためには、作品規定に基づいた卒業制作を完成させ、提出する必要がある。その作品規定は、とりあえず、「F100号(162×130cm)相当 2枚」としてある。
 100 号サイズが絵として大きいか否かは、なかなか判断が付けられないところではある。けして小さいとは言えないサイズだが、これより大きい絵はいくらでもある。一つ言えることは、卒業して学校のアトリエを去るとき、持ち運びと保存に手を焼く、最低限の厄介さは確かにあるだろう大きさだということだ。また、今の日本の住宅事情を考えれば、部屋に飾っておこうなんていう気は貴族でもなければとても起らないだろう。扱いに困るかどうか、それを全く問題にすべきではないとは考えないが、確かに副次的なことには違いないため、ここまでとしたい。
 ではなぜ、100号か。様々な公募展などの作品規定を顧みても、100号というサイズはある基準として機能しているように思われる。卒業制作を審査する教授らが、その公募展を開催する美術団体に所属しているからか。――まったく妥当ではない。卒業後の進路を大別すれば、大学院に進むもの、就職しつつ絵を描くもの、筆を折るものに分かれる。絵を描くとしても、誰もがその公募団体を目指すわけではない。いずれの進路を選ぼうが等しく上の課題が課せられるからといって、公募展という一つの尺度で、それらを一緒くたに測っているわけではないだろう。
 規定についての実際を言えば、厳密に100号だけしか受け付けないのでなく、ニュアンスとして「100号以上」という、ほとんど最低限のサイズを定めているようなところがある。100号より大きい分には、与えられる展示スペースを越えない限り、ほとんど何も言われない。しかし、これより小さいサイズの場合は、なぜそうでなければならないのかという詳細な理由を求められる(100号であることの理由は不明瞭であるのにもかかわらず、だ)。
 小さいよりは大きくなければならない、その理由。卒業に必要な実力を兼ね備えているからこそ、描けるサイズだからか。その形式を満たせるかという点で、卒業に相応しいかを測る基準を見ているのだろうか。――恐らく、それは正しい。声高に表明したいわけではないが、フォーマリストとしての立場に共感する私などは、そう思う。描かれた中身がなんであれ、一枚の厳格に律された平面性を保有する絵画形式を作り出したのなら、(これは逆説でもなんでもないのだが)それだけで自ずと評しうる内容はにじみ出ているものである。その時の平面性の持つ強さは、やはり画面がある程度大きいときにもっとも効果良く享受されるような気がする。100号サイズがちゃんと四角く平にできているか。誤解も恐れずに言うのだが、絵を評するのに中身なんか見る必要はないのである。
 そう思うからこそ、問題は多いと言わなければならない。これまで卒制に至るまでの過程で、「形式」に対する厳密な指導や検証がなされてきたとはとても思えないからだ。それ無しに先に100号を用意するのであれば、絵画形式が担保として確保されているに過ぎないのではないだろうか。もし、いや本当に万が一だが、審査する側が特に何の考えもなく「100号2枚」を規定しているのならば、意味がないからとっとと止めにすべきだろう。あっても無くても似たようなものだが、少なくとも、大きい絵を描くことを美徳とは考えない者のためにはなる。
 ところで、他の人達は何を制作しているのか、偵察を兼ねて周りを見渡してみる。良きにつけ悪しにつけ(まあ悪くはないか)、100号きっかり2枚の規定に従うのではなく、意欲的に一回り大きいのに描くか、自らが決めた矩形を作り出す、あるいは、少々小さめのを複数枚で組作品とする。そのような者が半数以上は占めている。私も、そのようなものだ。作品規定を形式的に踏襲するのではなく、そこからは離れたところにあってなお、絵画形式を考察したいのだ。


これからも書く

 10月9日に「これから書く」と書いたのだった。
 心的に圧迫されることなく、毎日何かしらを書き付けること。そのためにこのブログと、わざわざもう一つの日記の、二段構えの布陣を敷いたのだった。
 けれども新しく作った下位層部分は少しは続いたが、肝要のこの本家ブログに載せることは一度もなかった。そして制作中心の生活に移行しつつあるからでもないが、この先も上位に上げうるものは出てこないだろうことは明白であった。この二段構成そのものが悪いというのではなく、むしろ気の利いた措置だったと思うのだが、片方だけしか動かないのであれば意味を成さない。
 そこで、これからはこちらに書いていくことにする。これまでの分も転載した。
 トップページ右の上部に置いた下位層は、とりあえず残そう。要は三段構成になり、最上位部分はあきらめたということになろうか。いや、あきらめて消失したのではなく、心理的負担の軽減という当初の目的において、目には見えないが存在している。


マシンになりたい

 注文していた鉄材を今日運んでもらったので、作業を開始した。
 鉄を切断して溶接して組み立てていく、やることは全くの専門外のことだ。まずは道具の扱い方から聞かなければならない。実際の使い方のイメージは、これまで人がやっている仕事などを見て感覚的に捉えてはいるのだが、まず電源の場所や起動の仕方など本当に前段階のことがわからない。作業場では一人の素人がまぎれ込んでさぞかし邪魔なことだろう。申し訳ないが、ここは周りの渋る顔に気がつかない振りをして、厚かましくやらせて頂く。
 厳密な設計図は描いていないが、出来上がりの形の寸法をミリ単位で出してある。手順もほぼ決まっている。後は慎重に、できる限り誤差を出さないように組み立てるだけだ。ウォーホルじゃないが、「マシン」の精度がここはほしい。


卒展について1

 卒業制作というものは美大の卒業生一人一人にとっての集大成であり、卒業制作展は、その集大成をもっての卒業を記念する晴れ舞台のようなものである、実情はどうあれ、建前としてはそのような側面がある。学校側にとっては、その学校の教育の成果を内外に大々的に知らしめる機会であり、その分後押しもする。
 もちろん土台として一つの美術展である。単に展覧会としての質の良し悪しが、上記に挙げたような側面を左右することは言うまでもない。良い展覧会に仕上がれば、内外からの評価を得られるだろう。晴れ舞台は絢爛なものとなる。学校のほうでも、そのために良い制作環境を提供しようとする(学年が上がるにつれ、一人当たりに割り当てられる制作スペースは多少は広くなる暗黙のシステムがある)。展覧会としての質が何より優先されるものであることは、卒展といえど他の展覧会と変わるところがない。
 とはいっても、すべての美術展が、純粋に質を追求するだけで成り立つのではなく、政治的経済的その他の複合的な条件と思惑の上に立たないではあり得ないものではある。ただ、そうした状況の中にあっても、卒展というものは展覧会のあり方として、少なからず特殊なように思える。にもかかわらず、ふと気付けば、自分も含め多くの当事者は、ごく自然な流れとしてこの展覧会に臨もうとしているように思える。
 
 確かに、個人の程度の差こそあれ、これまで行ってきた学内外での展示に際するのとは違った緊張感で制作に臨んでいるとは思う。しかし、その制作の大本にあるはずの、卒展が自分にとってどう位置付けられるのか、という認識を、まず欠いているような気がしてならない。その時、作家志望の強い人ほど言う、卒展といっても通過点だから、といった物言いは消極的すぎる。
 もちろん、熟考の末に卒制を提出せず、なんてことがあれば卒業もできないのだから、事実上、避けては通れない展覧会なのではある。いや、だからこそ無自覚に通り過ぎるのではなく、最低限、自分なりの捉え方を持つことが必要なのではないか。いや、卒展に限ったことではないのであって、少なくとも自分が関わる事柄に対してはそうありたいと思うからなのだが。
 
 そんなことを当事者として時々は書こうかと思うのだが、それは、自分がいかに捻じ曲がったものの見方をしているかをさらけ出す、あるいは時々は甘ったれた愚痴をこぼす、そんなみっともないものになる気がしないでもない。でもそれは、これまでのもそうだったろう。