マッチを擦るに等しい

[承前]ここに文字を打ち出しているのもウォームアップの一環のようなものと捉えてみてもよいだろうか。とはいえ、それはほとんど冬空の下でマッチをするに等しい、とても暖かさなど得られるものではないかもしれない。
 しかも、いま暖めたい作文の感覚というのは、実は「手書き」のであって、こうしてパソコンに打ち込む類のものではない。そう、就職試験の作文のことを言っている。一つ書類審査が通ったらしいところがあって、次の一次筆記試験が2、3日後に控えている。
 大体は1時間で1000字前後、お題を与えられて原稿用紙に書き連ねるときに必要な感覚は、こうやって締まりもなくキーを打つそれとは明らかに異なっている。すぐさま全体を想定する瞬発力と、それを組み立てていく的確さが求められる。いざ紙に向ったときに漢字が書けない、なんてことも少なくない。それに対して僕がパソコンに書き込むときは、文が繋がらなくてもあれこれ言葉を書き出して、切ったり貼ったりコラージュするように組み立てていく。ある程度まとまりができてきたときに突然、起承転結もおかまいなしに上のセンテンスと下のセンテンスを入れ替えたりもする。いうまでもなく、紙と鉛筆で書いているときは、そんなコピーやペーストはできないのだ。
 もういまから紙に向って作文練習などはとてもできないし、あまりやるつもりもない。その代わりにせめてこの日記の欄に文字を打ったりしているのは、マッチの火で生み出される幻想でもいいから、もっと豊かで暖かなものが降りてはこないかと切望するからなのだった。しかし幻覚は出なかったようだ。
 思わず就職活動の一部分に触れてしまった。これよりあとはもう二度とネタとすることはないだろう。文章に憐れさがにじみ出てしまうからだが、今回はついでだから書くと、採用過程でそれなりにしっかりした筆記試験を課すようなところはまあ、難しいだろうなとは思う。今度の試験も、客観的に見ればほとんど期待できないだろう(望みがあったらこんなとこに書いていない)。経験である。


続きはまた冷えている

 文章を書くにあたっては、書くための勘というか感覚みたいなものが暖まってこないとなかなか書き出せないところがある。常時ブログかなんか書いていれば、それなりに感覚が暖かいままに保てるのかもしれないが、見ての通りこのところは飛び飛びにしか書き出さないので、そのたびにまずは冷え切った指先を暖めるためにウォームアップから始めなくてはならない。
 でも、実はそのウォームアップだけで息切れしてしまうことが多い。たとえばブログなんかだと800字程度書き出してアップしているが、その程度ではまだまだ暖まってもいない。それだけ書くのにもハアハアと苦しくてしょうがないのだ。
 もう少しだけ我慢すれば、感覚が機能してくるのかもしれないとは思いつつも、そこまでにもけっこうな時間を費やしてしまうので、続きはまた今度、というわけだ。その今度が、すぐにはやってこないからまた冷え切った指先を揉みほぐすところから始まる。


MacBookを買った

 昨日オンラインのApple Storeで注文したMacBook(黒)が今日届いた。
 ハイパフォーマンスが要求される仕事をする訳でもないし、はっきりいって大学入学と同時に買ったWinマシンでも、メモリを増設してからはほとんどその働きに不満を持つことはなかった。だが、こうしてニューマシンを導入したのは、その4年間を共にした愛用機が、不調を訴えて、というより一時は完全に逝ったと思われるほどの状態を通過したからであった。今は峠を越え、復調しているようでもあるものの、それ以来、遠からず来る命日を考えさせるようになり、また、それは学割の失効期限とダブらせもした。
 ”Mac”が欲しいなあと漠然と考えていた時期がたしかにあったにはあったが、今はそういった特別な感情は愛も憎も含めてほとんどないといっていい。けれど、(詳らかにしてもしょうがないからしないが)自分が購入するにあたって諸々の要素をひっくるめたときには、やはりMacBookを、という気持ちになったのであった。
 と、そうして届いたMacBookは、箱を開封して電源を入れて、初期設定からデータの移行まですんなりいって、なかなかよいものだと思った。


いずれリニューアルを

 なんとなく、しばらく振りでここにも独り言として書き込んでいる。
 卒展や卒業式前後で配った名刺代わりのカードに、このサイトのURLもしるしてあった。これまでは、ほとんど知り合いにも自分のブログを積極的に教えることはしてこなかったが、最後なので教えてもまあいいやと思った。
 前まではブログをつづけるのは学生の間だけかなとも思っていた。でももし、そのカードをみて見に来てくれる人がいるとすれば、すぐ畳んでしまうのはやっぱりどうかと思われる。
 もう少しは続けようと思うが、学校も卒業して一区切りも付いたのでこのサイトも軽くリニューアルできればいいなあと思っている。思っているだけで実行にはまだまだ遠いが。


なにが期待されるのか

 絵画は宗教や神話を生き生きと雄弁に物語る。そんな期待が絵画によせられた時代、マネの絵画は雄弁さを放棄し物語を宙吊りにした。人々の希求をするりとかわしたがゆえにスキャンダル(茂木氏の言うところの「認知テロリズム」)となった。しかし逆に捉えるならば、マネの絵画のスキャンダルとは、他でもなく人々の絵画に対しての胸膨らませる純朴な期待がたしかにあって、だからこそ引き起こしたということでもあるのかもしれない。
 振り返って現在、いまどんな絵画を提示したとしてもスキャンダラスなものにはなりえないだろう。たしかにマネのみならず、とうに近現代を通り過ぎた我々はあらゆる表現を相対化して見ている。かつあまねく手垢が付いていて、何を見ても少なからず既視感があってしまうのだから驚きは起きにくい。その上で、問うてみるのだが、では人はいまなお絵画に何を期待しているというのだろうか?
 いま出されている絵画が人々の期待にそれなりに沿っているものだと判定するのは論外だとして、他にまず先に一つの別解を挙げてしまうのなら、もはや期待そのものがない、ということだ。これは大なり小なり真実味を含む堅固な解であるように思われるが、しかしこれを「別解」に留めるのは、「正解」として真摯に期待するものはあったほうが健全だろうと思うからなのだ。ちなみにこの解に関して、楽天家も似たようなことを言う。そもそも期待も排斥もされるものでもない、一貫して社会に不要なものこそがアートなのだと、(同時にその非社会的なものも社会には必要なのだと説きつつ)彼らは問いを煙に巻く。
 
 さて、ここである人は手を挙げて回答したそうな。たしかに絵画をめぐる状況は愚鈍なものとならざるをえず、つくり手も困難な中にあるだろう。しかしそれゆえその閉鎖性を打ち破るものをこそ、我々は求めているのだ、と。ついでに、その人は卒展の場でこう言ったとか――あなたの自閉的な作品は閉鎖性の最たるもので、既に自明なものを繰り返す無恥は何より糾弾されなければならない。
 いや、誰もそうは言わなかったが、私自身の作品のことである。これでようやく私は自作を振り返る地点にたどり着いた。つづく(あまり、つづきそうもない)。


雪ぐ

 一日中寒い。実際、今週は昼も夜も雪がちらついていることが多かったので気温も低いのだろう。暖冬暖冬と悪態をつかれてきた冬が、文字通り雪を降らせて雪辱を果たそうとするかのようだ(広辞苑でしらべると「雪」はすすぐの意であるという)。
 ちょうど卒展が始まった頃、何度試してもパソコンが起動しなくなって、これは壊れたのだと思った。電気屋が言うにはHDDがやられているから直すのに5万くらいかかるとのことで、その値段だったらもう修理はしないけど一応メーカーに送って見積もりを出してもらうことにした。そうしたら10日くらいして、たしかにHDDにエラーが見つかったけど起動しないことはない、との回答がきて、戻ってきたパソコンを試したところ、なるほど起動した。
 それから今のところは前と変わりなく頑張っている。彼もまたその失態の恥を雪ごうとしているのだ。
 だが、一旦は死の淵を踏んだご老体である(もういつ逝ってもいいようにバックアップは十全だ)。天寿を全うするのだからむしろこれまでの功労を称えたいし、いたわってもやりたい。けれど跡継ぎが、ない。今逝ったら逝ったで不便になる。これをきっかけとしてMacbookでも買って後釜に据えようか。学割が効くのは今月末までだ(こんな日記を書きたくての「更新」だったの?)。


それから

 卒展を終え、しばらく経った。その間またしてもここに書き込むことも途絶えてしまっていた。それは、卒展や自分の作品についての総括の草案を暖めていたから、ではない。そうであればよいのだが、単にブロッギングする欲求が減っていたからであった。とはいえ、次に書かれるのはやはり何かしら先の卒展についてのものを、というような律儀な義務感も多少はあって、そのせいで敬遠していたところもある。
 これだけ時間も経ってその小さな義務感も既に融解し、また、(「更新のための更新」だとしても)こうして書き出そうとする欲求も再発してきた。卒展や卒制に関しては、またそのうち触れることにしたい。
 「更新のための更新」ついでに、卒業後のことなど。
 卒業式を目前に控える今に至るまで、その後の受け入れ先を決定することは、残念ながら叶わなかった。あらゆる活動のなかで何より作品制作を面白く思っているのでそれは続けていきたいと思うが、ただそれによって作者を食わせていくことは出来ない。何か生計のための仕事を見つけなくてはいけないわけで、だから差しあたっては職探しを、並行して制作を、と考えている。