ヨブ記

 旧約聖書の中に「ヨブ記」という話がある。
 神を畏れ敬うとても信仰心の強いヨブという義人がいた。そのヨブが神と悪魔の実験台にされてしまう。というのも神が悪魔にそそのかされたからである。「ヨブが信仰しているのは見返りとして利益があるからで不幸に見舞われればきっと神を恨むに違いない」とかなんとか、そんなことを悪魔にいわれて。
 誰よりも深く神を信仰しているのに、その神によって、わけもわからず苦難を受ける。財産も家族も失い、重い病気を患い、妻にも見放される。ヨブは不幸のどん底に突き落とされてしまうのである。それにもかかわらず並大抵の信仰者でないヨブは神を敬って賛美することをやめたりはしない。
 ヨブの友人たちは、こんな目にあっているのも知らないうちにどこかで相応に罪を犯しているからで、神は絶対に正しいのでとにかく懺悔しなさい、というようなことを諭すのだけど、ヨブは身の潔白を確信しているからそんな忠告には従わない。
 一般論を物知り顔でいう友人も腹立たしいし、いくら信仰する神の為すこととはいえ、やはりこの不当な仕打ちには全く理解も納得もできるものではない。こんなに義を尽くしている私に対してこんな仕打ちだなんて、あまりに不条理なんじゃないか。だから当然、「なんで私が?」とヨブは神に向かって申し立てるけれども、神は沈黙してその問いに答えてはくれない。その申し立ては切実で、もうほとんど恨みつらみに近い。
 そうしたヨブの態度には我慢がならなかったのか、ついに嵐の中に神が登場する。と、ヨブはそれだけで屈服してしまって、神の前にひれ伏してしまうのである。「私は自分を否定し/塵芥の中で悔い改めます」と。
 おおよそで書けばこれがヨブ記のあらすじである。最後にヨブが悔い改めた後、ヨブは神に祝福され、富も子孫も健康も回復するということになってめでたく結末を迎えることになるのだけれど、なんだかおかしな話だ。元はといえば非のない生き方を真面目にしていたはずなのに、最後は神に「悔い改めろ」といわれるなんて。いったい何を悔い改めるのだろうか。自分の義の正しいことを主張していつまでも苦難の意味を神に問いつめる、そのことを改めよというのだろうか。たしかに人の分際で強情に神に楯つくようなところがあったかもしれない。でもそれで怒られるなんて、そもそもことの始まりを考えてみるとばかばかしい。神が悪魔にそそのかされて始まったのだから。そんなの神にしては少し愚かすぎるんじゃないの、といいたいような話(それでいて聖書に収められているのだ)。
 

 山形国際ドキュメンタリー映画祭のときだったから、もう二、三ヶ月くらい前になる。そのときに見た映画の一つにイスラエルのドキュメンタリーがあった。話す言葉もたぶんアラビア語かなにかであったため、英語字幕がスクリーンの下の方に出ていた。日本語はスクリーン右端に縦方向に表示されている。でも位置的に楽で読みやすいという理由で、主に横書きの英語字幕を追って観ていた。その映画である人物が話している最中、前後の単語が何であったかは忘れたけれど、「Job」という語が含まれる字幕が出てきて、その文が意味がなんだか飲み込めなくて、つっかえてしまったことがあった。
 「Job」を反射的に「仕事」と置き換えてしまったからだ。もちろん「Job」は固有名で、つまり「ヨブ」のことであって、ヨブといったら「ヨブ記」のことなんだ。「仕事だと意味が通じないよなあ。Jが大文字だしなあ」と変に思ったところで、はっと諒解したのだった。
 その映画というものは、イスラエル-パレスチナ問題とか、それによって監督(たしかパレスチナ人だったか)に降り掛かる困難な出来事を自ら捉えていくものだった。その中の一節で、彼の友人だか弁護士だかが、彼の度重なる苦難についての感想を、「ヨブのようだ」みたいなふうに語ったのだと思う。
  英語の字幕を追うとか英語のスピーチを聞くとかそういうことでは、わからない単語などがあったらできればそのままやり過ごしたいものだ。話はどんどん進んでしまうのだから、その箇所にだけこだわってしまうと結局全体がわからなくなってしまう。けれども、最初から全く知らない単語であればわからないままやり過ごせるのだが、わかりそうでわからない文章などは余計に気にかかってしまう。気にしまいとしても、のどに刺さる小骨が気にかかるようにそれはいつまでも頭の片隅に残る。
 それで、このわかりそうでわからなかった「Job」という言葉にもやはり引っかかってしまった。「ああ、これはヨブのことなんだな」とようやく気づいてからも、「さ、次、次」みたいにスパッと頭が切り替わるわけでもなく、ぼんやりとヨブのことを、考えるともなく考えることになる。「ヨブ記」自体、哲学的な問題でも神学的な問題でもけっこう深い含蓄があるので、そういう意味でもとげの多い、飲み込みにくいものではある。
 とはいえぼくは「Job」という単語を見て瞬間的にヨブが思い浮かばなかったくらいなので、一応話は知っていたけどそこまで馴染みのあるものでない。こういう「ヨブ記」との距離感には、このドキュメンタリーが撮られた場所との文化的というか宗教的な土壌の違いを改めて思わされたりもする。でも、それよりこの「Job=仕事」の思い込みの強さはかえっていかにも中学程度な英語感覚を表しているようで苦笑してしまったのだけど。
 そして、ヨブのことを思うと、その最初に浮かんだ「Job=仕事」もやはりどこかに付随してしまっているので、「ふーん、英語で『ヨブ』と『仕事』は同じ綴りなんだな」となんとなく気づいた。それに気づくやいなや連想が働いたというか飛躍したといえばいいのか、でも妙に納得してしまったのだけれどこんなふうに思ってしまった。「つまり『仕事』というものは、愚かしい神によって与えられる不条理な苦難みたいなものなのだなあ」と。
 まあそれは、当然ながら映画の内容とは全く関係ないことで、でもそのうち頭の片隅だけでは足らなくて半分以上は使ってこういうことを考えていたから、しばらくのあいだ映画の筋を追えないのであった。
 

 そんなことを考えて一人で頷いていたのは、大きな声でいうのははばかられるのだが、他でもなくぼくが単純に「仕事が苦痛だあ」と思っているふしがあったという、それだけの話なのだ。
 「ヨブ記」を素直に教訓として読むにはどうにも釈然としない話だし(だから興味も引かれるのだが)、もっともキリスト教徒でもユダヤ教徒でもないぼくはそれを教訓として読まなくちゃいけない義理はないのかもしれないけど、「仕事」の苦痛にはあまり意味を求めたりしないほうがいいんじゃないか、くらいには思うようになった。
旧約聖書ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)


山形交響楽団「ドイツ・レクイエム」演奏会

25日に山形交響楽団の「ドイツ・レクイエム」演奏会に行ってきた。ぼくはベートーヴェンの「第九」がとても好きで、年末にはぜひ聴きに行きたいなと思っていたけど、近場ではどこも演奏していなかった。というかこの辺で演奏会に行くとすれば山形交響楽団くらいなのだけれど、その山響の今年最後の演奏会が「第九」ではなくブラームスの「ドイツ・レクイエム」だったから、まあ、それでもいいかくらいの気持ちで聴きに行った。そういえば「第九」の合唱はレクイエムのような厳かな響きだし、なんといっても「ベートーヴェンの十番目の交響曲」を書いたブラームスなのだし、雰囲気的には似ているのかもなあ、なんて思っていた。聴いたこともなかったけど。結果的に、今回は「第九」を聴くよりもこのドイツ・レクイエムを聴けて本当に良かったと思う。本当に良い曲だと思った。
「第九」の第四楽章の合唱部分を聴くと感情をものすごくかき立てられる。けれども、その感情のかき立て方は少し単純というか、がつーんと盛り上がるところで盛り上がればなんとかなるというか。構成として、そういう強引に押し切る力技でもなんとかなるような気持ちにさせる(だから、年末になると素人がこぞって歌い出すのも、日頃から声帯を鍛えていない素人でもそれなりに歌えて、なおかつそれなりに感動できる曲だからなんじゃないかと思う)。それに比べると、この七曲で構成されるレクイエムは、いくつも層が積み重なっていく感じで複雑な味わいがある。それだけに難しい曲なのだろうなと思う。第一、90分もの大作で歌い切るのだって大変だ。
合唱を担当するのが、山響学友合唱団と山大学生有志の合唱団で、実際のところそんなにレベルの高い歌唱ではないのだろうとは思うのだけれど、この繊細な変化があってかつスケールのある曲をまるで表現できていないとかそこまで悪い感じではなく、充分に聴き応えのあるものだった(聴き分けができるほど大した耳を持っていないぼくがいうのもなんだが)。というか、曲の厳かな進行にただ引き寄せられて、上手いとか下手とか技術的なことはあまり頭をよぎったりもしなかった。いや、バリトンとソプラノのソロは本当にすばらしく、その分だけそのときだけは、この独唱に合唱が見合っていないのではないかと、ほんの少し惜しまれる気持ちがなかったわけではない。
でもそれは大した問題ではないような気がする。たしかにこの演奏よりすばらしい演奏はどこかにきっとある。よりすぐった精鋭の集うオーケストラと合唱団によって、ブラームスの精神を汲みつくした偉大な指揮者によって、それこそ神のごとき演奏は行なわれるかもしれない。それを聴いてみたいとも思う。でも、そのことによって、この場でこの演奏を聴いて心が揺さぶられたという経験は少しも減るものではない。ぼくは今回、とても良い演奏を聴いた。それはとても得難い経験だと思った。
プログラムノートからメモ。〈レクイエム〉とは本来、ローマ・カトリック教会でラテン語によりおこなわれる〈死者のためのミサ〉を意味する。しか〈レクイエム〉という言葉が、これら教会での典礼から徐々にはなれ、拡大解釈され、広い意味で死者を弔うもの、死者の鎮魂を願い、冥福を祈るものとして、題されるようになった。
ヨハネス・ブラームス(1833-1897)は、ドイツ人として、ドイツの信仰・魂の源をたずね、ルターが1537年に訳したドイツ語の聖書の中にそれらを見いだし、作曲する意図にそくしたものをテキストとして用いた。カトリック教会の典礼において、ラテン語で歌われるものとしてではなく、ドイツ語により、一般の音楽会で演奏される作品として作曲された。〈ドイツ・レクイエム〉といわれるゆえんである。
ブラームス:ドイツ・レクイエム