年末

年末なので今年一年を少し振り返ってみようと思ったのだけど、ひどいことにもういろいろ忘れてしまっていて何があったのか思い出せません。なので、ここ数日を振り返って今年の幕を引こうと思いました。

前日の夜から大雪になっていたようで、26日は積雪がすごくて、また雪も断続的に降るなか、午後からは仕事で秋田市に赴いたのだったが、吹雪で車を運転していて前が見えないという苦労をしつつ到着したビジネスホテルで、夜、BSで黒澤明の『乱』をやっていたので鑑賞した。
というか、あれ? よくよく思い返してみると、『乱』を観たのは秋田市のホテルではなくて別のところだったから26日ではなかったということになる…。では26日の夜は何をやっていたのかを頭をしぼるようにして思い出してみると…、ホテルの最上階のわりときれいな大浴場でぐったりとして湯船につかっていたことだけが思い出されるだけなので、特になにもしていなかった、ということらしい。黒澤明の『乱』を観たのは、たぶん23日かそのくらいで、黒澤明の没後10年ということで特集して放映していたもので、先々週くらいには同じ企画で『デルス・ウザーラ』をやっていて、これも観ていたのだったが途中で眠りこけてしまった。
黒澤明というと、いつだったかはこれも忘れたけどこの一ヶ月くらいの間に『羅生門』も観ていて、それはgoogle videoからダウンロードしたすごく荒い映像のものをパソコンで観たのだったが、やっぱり面白かった。映画って面白いんだなあと思った。あまり関係ないけど、今年観た映画のなかで本当に良かったと思ったのが黒沢清の『トウキョウソナタ』で、これはすごく心打たれるものだった。どこがというようにははっきり言えないけれども映画を観ていて終始恐ろしくて、胸が苦しくなっていたりもしたのだけど、最後の、ドビュッシーの「月の光」を弾くシーンなんかはすごく感動的ですばらしいものだと思う。
翌27日は秋田市周辺で一仕事をして、自宅へ帰った。山形市にあるお菓子屋さんで、「コウシロウ」というお店を教えてもらって、そこの「オランジェット」というオレンジのチョコレートを頂いていたので食べてみたところ、大変おいしくて、これもすごいなあと思った。あんまりもったいないので1日2つと決めて食べようか思案したのだが、まったくもって抗いがたいものがあったので、作ってくれた人と買ってくれた人に感謝して合掌したあとに、一度に食べてしまった。
28日は何をしていたのかというと、日曜日で休みで、特になにもしていない。図書館に行って年末年始に読む本をいくつか借りる。
29日は仕事なので出社した。
30日。近所の、というほど近所でもないところにある温泉施設に行って温泉に入ったのだったが、ちょうどこのときで回数券は残り最後で、使い切った回数券に記録されている日付を確かめると、6月に買ってからひと月に2回くらいのペースで来ているようだった。
温泉は、この日行ったのとはもう一つ別の、昔からある「市民浴場」というのがあって、比べると、まあ比べるまでもなく、新しい温泉の方が広く、温泉も3種類あってサウナもあって利便的であるので、そちらの方が良いといえば良いのだけど、秋から冬にかけてはその「市民浴場」の方により頻繁に通っていた。というのもどうして古い方に行っていたのかというと、ただたんにそちらの方が安いから、なのだが、そこでは午前中のある時間などに浴槽に日が差し込んで、光は水面に反射するのと、お湯の中を透過して浴槽の床に到着して跳ね返るのとがあって、それらの織りなす光が、複雑に、黄金色に眩いばかりにゆらゆら揺らめいていて、そこにやせ細った、皺々の皮膚に骨の浮き出た老人が目を瞑って横たわっていたりするのを見ると、それはものすごく浮世離れしたものを感じさせる様相で、長湯してのぼせたわけでもなく軽いめまいのようなものを覚えてしまう。
31日は今日で、大晦日なので、家でそばなどをすすった。


山響「第九」演奏会

「そうだ!この世にたとえ一人でも、わがものと呼べる人がいるものは!」——昨日、山響の「第九」演奏会を聴きに行って、そんな反応の仕方はちょっと単純すぎるんじゃないかと思うけれども「歓喜の歌」にはとても勇気づけられた。僕だって僕自身の喜びというようなものをもっと強く実感していきたいと思ったし、そう考えると今だって近くにもっと喜んだ方がいいようなことがたくさんとは言えないまでも二、三くらいは転がっているように思われるというものだし、それはしっかりつかみ取るべきなんだと思った。なんだか背中を力強く押されたような思いでした。


いちごのショートケーキ

いちごのショートケーキ
クリスマスということでクリスマスケーキを。いちごのショートケーキ。
このいびつさはちょっとすごいじゃないか。
生クリームとスポンジの割合はけっこう大事だと思った。ただスポンジを隠れるまで塗ればいいというわけではないのだ。生クリームは一番最初の一塗りが最もキレがあって、あとは手を入れれば入れるほどぼそぼそとしたものになってしまう。
そういうことはわかってはいたが、何度もやり直してしまった。なので、あまりきれいに塗れなかった。だいたいホイップしすぎでクリームが固かったのだ。それと、製菓用のものを持っていないから油絵を描くときに使うペインティングナイフで塗ったのだったが、僕はあまり大きなペインティングナイフを使っていなかったんだなと改めて思った。
見た目は完璧!とはいかなかったけど、味は、初めてにしてはまあまあおいしく出来たと思う。
生クリームでケーキをデコレーションする、というようなことは、一見したところ心躍らせる面白そうなことで、実際それなりに面白くもあるのだけど、たとえばタルトを作るときの面白さとはちょっと違うなと感じた。タルトを作るというのは、タルトの型枠の中にクリームやフルーツをどんな組み合わせでどんな風に詰めていくかということなのだが、具材が型から突出して飛び出てしまったり、あふれていたり、つまり型を無視してしまっているものは、タルトとしては成立しない。タルトというのは基本的に制約のある不自由なお菓子でその不自由さが面白いと思うし、また、タルトを作ることは、その都度にタルトの枠を作ることでもあるのだなあと感じている。
いちごのショートケーキ


高嶺格[大きな休息]明日のためのガーデニング1095㎡

そういえば先月、長野市の善光寺に行ったときに、寺の地下に潜って真っ暗闇の中で文字通り手探りで前に進むということをやった、それが目が見えないという、視力を一切欠いた体験だったと思った。ただ右手に壁をつたっていくだけなのだが、あまりずんずん進むと前の人にぶつかるし遅くても後ろの人がぶつかるという、なんだか腰が引けた歩き方になった。善光寺でそれをやったときも、それ以前に視力を奪われる経験がどこかであったと思ったのだが、それは何だったかちょっと思い出せない。
イルミネーションというのはまさに目で見るものであって、ケヤキ並木のあふれんばかりに光り輝く様子は美しく感動的でもあったのだが、そもそも見るとか見ないとかいうことについて根本的に問われるようなところがあったのが仙台メディアテークでやっていた、高嶺格さんという作家の作品だった。その作品は目の見えない人に案内してもらうツアー形式になっている。これは別に目隠しなどをさせられるわけでもないのだが、少し薄暗くはある空間を、目の見えない人に導かれ、辿っていく。
目の見えない人の身体感覚とか記憶とか、そうしたものがそこにある素朴なオブジェみたいなものを触れながら語られることで、あるとき「見えない」というの身体感覚が自分の身体のなかにすっと入り込んでくるかのような瞬間があった。そのときそれら物体に含まれる感触が別物に感じられる、というよりもこの世界と自分の身体の関係が揺さぶられる感じ。そんな言い方は少し大げさに響くけれど、でも確かにふっと動いたのを感じる。こういう感じというのは、いつまでも留まっているものではなく、するりとこぼれていくもので、次の瞬間にはそれがあったのかも定かではなくなってしまう、というものだけど、その「ふっと動く」感じを僕はこの作品を通して二度くらい持った。
案内人が、小屋が宙吊りにされていたのを、「こういう大きさのものが触ったときに揺れるというのが不思議だ」というようなことを言っていたときと、別の小屋に備え付けられたはしごを示して「はしごを登るときにどこまで続くのかわからない」と言っていたときで、それを聞いたとき、自分がそれまで持っていた知覚に介入してくるものがあって、内側から感覚が変化していくようなものを感じた。こういうのは僕の感覚がたまたまそのとき反応したということでしかないわけで、他の人にとってピンと来ないのだろうと思うし、いま自分で書いていてもあのときの「感じ」は蘇ってこない。
ここまで書いてきたら、最初にとりあえず書いた「見ることの根本を問われる」というようなことは、あまりそうではないんじゃないかという気がしてきてしまった。見えるとか見えないとかいうは、その事自体は実はあまり大した問題ではないというか、あくまで重要なことは感覚が「ふっと動く」ことだ。そして何がそうさせるのかというと案内人の「言葉」によるところが大きいように思った。
目の見えない人が捉える世界は、見える人の世界とはどこか組成が異なっているのだろうと思う。見えない人が何かを、世界について、身体感覚について語るとき、それは私のもっているそれとは違うものであるから、そこに齟齬が生じる。すごく微妙なものだけど、それがうまく作用したときに、普段の知覚状態を「ふっと動かす」何かが誘発されるのだろうと思った。たぶんこういうのははじめにテキストだけがあってもダメで、案内人と時間を共有し、手触りを確かめたり、その都度思い起こされる言葉を言ってみたりする作業が必要なのだろうと思う。
その知覚の揺るぎみたいなものがそう簡単には訪れないのは、私たちにとっては目が見えるということがたぶん本当に強く作用しているからで、この見える感じというのはなかなか動かしがたいしぶとさがある(そうでなかったら生活に支障を来たしてしまうのかもしれないけど)。思ったのは、この視覚のしぶとさもあるし、美術だとかの枠組みにいよいよ絡めとられているのかなあとも感じれるのだけど、四角い平面上に布生地が張ってあるようなものは、こんなふうに視覚に拠らない体感を促されているような場面にもかかわらず、手触りがどうとかいう以前に視覚的に瞬時に「四角い平面」というものが認知されて、これはもうびくともしない本当に強いものだと思った。あまりにも実感として強いので困惑してしまった。


2008SENDAI光のページェント

2008 SENDAI PAGEANT OF STARLIGHT
仙台の「光のページェント」という、並木道のケヤキにたくさんのイルミネーションが灯されるやつを観に行ってきた。行ったその日が点灯式で、カウントダウンとともに5時半ちょうどにイルミネーションが一斉に点けられた。歓声が上がった。端の方から、パッ、パッ…と順に点いていくのかと思っていたら、一斉に、本当にぜんぶが一瞬で点いたので、それもあふれ出るくらいのもので、ちょっと意表を突かれて、はっとした。
電飾は、すごい数のLEDが付いているのだろうけど、やたらめったらつけてあるわけではなくて(いや、やたらめったらつけてあるんだけど)、コードに沿って光の点々は一本の線になっているわけだから、それは木の枝振りに沿って伸びていて有機的な線を描いている。でも、並木道の中心から見ると、木々は重なっていて線の連なりを目でするする辿っていけるわけでもなくて、光の点はまるで空間のどこに位置しているのかもわからなくなるし、光が密集しているところでは逆に電飾が付いていない枝の部分が黒い線のようになってグイッと強く引かれているように見えたり、単色の光でも見ていてぜんぜん飽きることがない(ただちょっと寒くて、もっと厚着してくればよかった!)。
そういう有機的な線とか、黄金色に輝く感じとか、あと遊歩道にはなんか変なポーズをとっている裸の彫刻とかがあって、それらを調合した雰囲気には、クリムトの、どの絵というわけではないがグスタフ・クリムトの甘美な絵をなんとなく連想してしまった。クリムトはけっこう好きな画家だった、というか実作品はあまり見たという記憶がないけどいまもわりといいなと思う。


りんごとバナナのタルト

りんごとバナナのタルト
中にバナナとアーモンドクリームを詰め、上にりんごのスライスを並べて焼き上げた。りんごの酸味とバナナのもったりした甘みの組み合わせ。こういうアーモンドクリームに果物を合わせて焼き上げるタイプのタルトは作りやすいし(まだまだ余っているアーモンドプードルも消費できるし)、おいしいし、いいと思う。
気がついたらもう紅玉も店に並ばなくなっていた。隅の方で売れ残りみたいになっていたのを買っておいて、この前のタルトタタンを作って、その残りでこのタルトを作った。とうとうアップルパイは作らず終いだった。すごくベタなアップルパイを作りたかったのだけど、パイ生地をうまく作る自信がなくて手を出せないでいたら、あれよという間に紅玉は終わってしまった。いや、ふじとかだったらあるのだけど。


タルトタタン

Tarte Tatin
タルトタタンにバニラアイスを添えて(大根のおでんみたいだ)。
妙に甘ったるい感じになってしまったのは、最初は単純に砂糖を入れすぎてしまったからだと思ったのだけど、よくよく思い巡らしてみるとどうやらそうではなくて、カラメルを作ってバターを溶かしてそこでりんごを煮るという手順をきちんと踏まなかったからなんじゃないかと思った。
タルトタタンを作るのは初めてなのだけど、タルトタタンに限らず初めて何かを作るときは、作る際の一つ一つの行為とその行為の結果がどうなるのかというところの結びつきがまるでイメージできなくて、自分が何を作っているのかわからないと言っては言い過ぎだけど、自分がやっている一つ一つの作業の意味というか目的みたいなものが、箱に入れられて蓋をして鍵まで掛けられているようにまったく見えない。これはけっこう感覚的なもので、レシピやなんかを熟読してもわからない。一度作ってみるとこれはこうすればいいんだなということが想像できる。
甘さがくどい感じでもりんごの味はけっこうしっかり拮抗していて、そのりんごの味というのは生で食べる以上にりんごそのものの味がすると言ったらいいのか、りんごの潜在的な味わいを感じさせるもので、りんごってすばらしいなと思った。
バニラアイスと一緒に食べるとなんだか甘さも中和されるようだった。タルトタタンをちょっと温めて冷たいアイスと一緒に食べると幸せな感じの食べ物に。


Dさんの来訪

Dさんがやってきた。玄関を開けてまず目が合ったのはDさんではなくてDさんを連れた青い制服を着た若い男で、早口で二言三言何かを告げ、それは言葉として何と言っているのかまるで聞き取れなかったけれども何を言わんとしているのかということは理解された。ようするにDさんを引き渡したいのだが費用としてこれこれの額の金が要るということを言ったのだ。その金額は僕がそのとき手にしていた封筒の中身とまったく同額で、僕はただそれを取り出して手渡すだけで良かった。男がその紙幣を数えているあいだ、ぼけっと突っ立っている僕は玄関の戸から入り込んでくる外の冷たい空気に凍えていて、早くしてくれないかなと思った。

Dさんが僕にもたらしてくれるものは光のようなもので、絶望的に暗い穴蔵のようなところで暗闇に打ちひしがれているという恐怖をDさんは取り去ってくれる。つい最近目の手術をしたという人の話を聞いたのだが、その人は術後に眼帯をとってものを見たとき「世界はこんなに明るかったんだねえ」と言って感動していたのを思い出す。世界がどれだけ明るいかなんていう客観的な基準はやっぱりなくて、たぶんある人にとっては暗く見えていてある人にとっては明るく見えている。といっても、何しろ誰かの目を借りてその人がどんなふうに世界を眺めているのかということは確かめようがないのだから、それはわからない。他の人がどんなふうに世界を見たかということが表されているのが絵画などであって、でもそれも他の人が見て表されたものを自分の目を通して見るということだから、結局は自分が見ているものは自分以外の何者が見ているものではない。ただ見ようによっては、他人の目を通してものを見ることで普段自分が見ているのとはまるで違う世界が拓けてくるのを感じることはある。たぶんそれと同じようなことで、Dさんを通して見える世界はこれまで僕が見ているそれとはほとんど別世界のように思える。遥かに明るさをたたえている。というよりも、僕が闇の中で目をがんばって凝らしてようやく見えてくる本当に切れ切れに漂う光を漏らさず丁寧にすくいあげるというようなやさしさ。その光景は僕の無気力、無感覚、職務における無能などといった諸問題をきれいさっぱり払拭してくれるだろうことを予感させる。