ミルフィーユ

ミルフィーユ
生地がうまく焼けない。とてもおいしくない。
バターが手に入らないので植物性のマーガリンを使っていて、だからうまく焼けないんじゃないかと思う。もちろんつくり方自体が悪いというだけなのかもしれないけど。


ハイドン・協奏曲・古典派音楽

フランツ・ヨーゼフ・ハイドンという作曲家は、「交響曲の父」とか「弦楽四重奏曲の父」というように呼ばれる。といっても、交響曲や弦楽四重奏曲というものを一から発明したわけではなく、バロックの音楽を伝統的に受け継いだ上で、自身の懸命な作曲活動を通して展開、発展させた。その到達点が、古典派の交響曲や弦楽四重奏曲という形式であった。ハイドンは交響曲を百曲以上も書いていて、弦楽四重奏曲は70曲以上に及んでいるらしい。簡単にいえば、そのハイドンの作品の変遷過程が、つまりそのまま古典派様式の確立の過程みたいなものなのだ。
今回の山響の定期演奏会で取り上げられた、交響曲「朝」「昼」「晩」というのはわりと早い時期に書かれたものらしい。ハイドンが宮廷楽長に就任した頃で、聴衆(というか主人のニコラウス・エステルハージ候)に楽団員の腕前を披露させるために作曲したのだそうだ。そのため、各楽器にソロの多い曲となっている。「交響曲」といっても後に確立する古典派的な交響曲ではなく、なんというかバロック的だし、ソロが技量を見せつけるという構成は協奏曲的な要素が大きい。
トランペット協奏曲の方は、晩年の古典派様式が整っていた時期に書かれたものだ。要するに、ハイドンの若い時期と晩年の円熟期、バロック様式に片足を突っ込んだ音楽と自ら確立した古典派様式を基底とした音楽。この演奏会のプログラムには、そういう明快な構図を見ることができる。晩年の作品に、交響曲ではなく協奏曲を選択したことで、その対比はより際立って浮かび上がるだろう。どちらも独奏楽器の演奏を強調している曲だからだ。両者は決して同じではなく、歴然とした違いがある。
でも、それはどういうところが違うのだろう?「『バロック』と『古典派』の違いだ」なんて言っても説明になっていない。その両者の差は、一体どのように言うことができるのだろう?

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山響第188回定期演奏会

おととい、山響の第188回定期演奏会を聴きに行った。今回はハイドン特集みたいなもので、ハイドンの曲だけのプログラムだった。
ハイドン:
トランペット協奏曲変ホ長調 Hob.Ⅶe:1
交響曲第6番ニ長調 Hob.Ⅰ:6「朝」
交響曲第7番ハ長調 Hob.Ⅰ:7「昼」
交響曲第8番 ト 長調 Hob.Ⅰ:8「晩」
ほかと比べてトランペットの協奏曲は曲自体あまり数も多くないし、そんなに有名な曲もないのだろうと思うのだけど、偶然近くの図書館にCDがあったので、予習というのでもないけど事前に借りて聴いていた。ハイドンのトランペット協奏曲はとても晴朗で、すがすがしいいい曲だと思う。苦みや雑味がないというか。
よく美術なんかだと、作品は写真や画集なんかではダメで、実物を見ないと良さがわからないと言うし、その通りだと思うけれど、それが音楽では、CDではダメだなんて力説する人は、まずいない。たとえばグールドのような人もいたわけだし、そういうオーディオ装置で聴く音楽というのも、それなりの良さがあるという以上に、一つの音楽のあり方として重要なものだからだ。どっちでなくちゃダメだというものではない。実際、CDを聴くのと、コンサートホールで聴くというはまるで違う体験だ。それは、この演奏を聴いて改めて思い知らされたことでもあった。すごく鮮烈に。
まず、冒頭の第一主題の提示部。オーケストラの最初の出だしで体がビクッとした。僕なんかがCDで聴く場合、スイッチを入れたときに思いのほか音量が大きくてビクッとしてしまうとかそういうことが多いのだが、ここでビクッとしてしまうのは、一気に楽曲の次元に空間が引き込まれる感覚なのだ。単に音がでかくてびっくりしてしまうのは日常の次元のことだ。その主題がトランペットの独奏に引き継がれると、クリアで心地よい音色の湛え方には身震いしてしまうし顔がニヤけてしまう。ほとんど変な人みたいだけど、「喜び」ってこういうことだと思う。そして、カデンツァの支配感といったらもう筆舌に尽くせない。指揮者でさえもジッとして演奏に聞き入る、本当に時が止まったかの瞬間。ここで咳の一つでもしたらすべてがぶち壊しだという感じの、ものすごく張りつめた緊張感は、それなりに作法を強いられるコンサートホールの中でしか味わえないものだろう。
もちろん下手な奏者だったらこうはならないだろうし、このトランペットがすばらしい演奏だったことに疑いなど全然持てない。ソリストを努めたのは、井上直樹さんという山響のトランペットの首席奏者の方である。
続く交響曲の「朝」「昼」「晩」は、各楽器のソロパートの多い曲で、それだけいろんな味が楽しめて(そのぶん緊張感とか曲としての完成度という意味では少ないと思うのだが)、曲が進行するにつれ充足感に満ちていく思いがした。それはたぶんほかのオーディエンスも同じで、曲が終わるたびにその充足感は拍手となって放出されて、そんなわけで盛大な拍手が鳴り止むまで、指揮者は袖と舞台とを何度も行ったり来たりするのであった(それは「しきたり」だけど、それでもね)。
指揮者はゲルハルト・ボッセというドイツの巨匠で、ご高齢の巨匠らしくおおらかだけど抑制の利いた指揮だった。ハイドンに思い入れがあるようで、「ハイドンの曲はもっと演奏されていい」というようなことを演奏前におっしゃっていた。なるほど、ハイドンはたしかに聴くべきところが多いかもしれないですね。なんて、僕なんかがわざわざそんなことを言うのもとんちんかんな響きがするようだけれど。
ハイドン:トランペット協奏曲