仲道郁代「ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全曲公演 第1弾」

宮城県の七ヶ浜国際村ホールで行なわれた、仲道郁代の『ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全曲公演』というのを聴いてきた。
このベートーヴェンの全曲公演は、全8回にわたるシリーズで、〈熱情〜パッションと絶望の狭間〜〉というようなタイトルが付けられている今回がその第1回目であった。この第1弾のプログラムは、第1番、第7番、第13番、第23番「熱情」の4曲。
仲道郁代さんという方は、「とても○○歳のお子さんがいるとは思えない」みたいな感じの美しい方で、また曲の解説やお話をするときも、物腰が柔らかく、丁寧で、すごく聡明な感じを与えさせる人で、要するにすごく魅力的な人だ。僕なんかは、その人を前にするのももちろん初めてだし、その演奏を聴くのも初めてなのだが、演奏を聴く前から、どう聴いたってこの人の演奏が悪く聴こえるはずがない、みたいな気分になってしまう。
とはいいつつ、実際に仲道さんのベートーヴェンを聴いたら、とくに前半の第1番と第7番なんかは、「よくわからないな」というふうに思ってしまった。「わからない」とか思っちゃうと、とたんにその言葉に引きずられてしまうから、なるべくそうは思わないようにするのだけれど、やっぱり、この曲はなんかわからないなという感想を持ってしまった。ベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏に立ち会うことが、こんなに当惑させられるものだとは、全然思っていなかった。
もちろんその演奏が悪かったのではなくて、例によって聴く側である僕の耳の貧しさとか原因ということに他ならない。仲道さんの演奏は間違いなく質の高いものだと思う。タッチは繊細ながらも強靭で、それも大仰な感じではなく、どこかさらっとした感じで、こんなにふくよかな音の広がりが浮かび上がってくる。
けれど、それが、音楽的にはわからないというか。作品的にどういうふうに着地しているのかがわからないというか、これはもう、僕の決定的な音楽的センスのなさを示すかのよう。根本的に、音楽を自分の耳で聴くことの心細さとか、孤独さとか、そうしたものを感じて打ちひしがれてしまった。
とはいえ、実は、仲道さんは曲の間のお話の中で、モーツァルトやショパンとは違い「ベートーヴェンのピアノ・ソナタは、弾いても解放してくれない」というようなことを打ち明けていた。僕はなんだか救われたような気がして、「やっぱりそうなんですね」といいたいところだった。僕の「わからない」という印象と「解放されない」ということが、果たして結びつけていいものなのか、わからないのだけど。
闘争的で、野心的な作曲家・ベートーヴェンは、ピアノ・ソナタを作曲する上でも、様々な実験をしているらしい。古典的で王道的なピアノ・ソナタ、そうした伝統を学びながらも、ベートーヴェンはそれを打ち破るべく、新たな試みをいくつも行なう。そうして書いた革新的なピアノ・ソナタを、「どうだ」というふうに聴き手(主に当時の貴族たち)に突きつけていく。
「挑発」というのはまず、当時の聴き手に対してであるわけで、現代の私たちは、当時の貴族が感じたのと同じようには「挑発性」を感じることがないだろうなと思う。というのも直接に挑発的に聴こえた方が、それが音楽を聴く上での取っ掛かりとなるんじゃないかと思うからなのだけど、それもなければ、本当に取りつく島もないという感じで、ただただベートーヴェンの生の音楽自体に向き合わざるを得ないんだろうと思う。
早い時期に実験を兼ねて書かれたものには、たぶん屹然としたベートーヴェン像というものがまだない分、どこか曖昧としたところがあるのだろうと思う。だから捉え方としても一筋縄ではいかないわけで、僕にとっては難しいなという印象なのかもしれない。だけど、ベートーヴェンの音楽性がもう確固として音楽であれば、そんなに当惑しない。向かい合うというより、もう身を委ねてしまうことで、その圧倒的な音楽性が理解されるようなところがある。だから「熱情」の演奏などは、僕も本当にすごいなあと感動させられたのだった。
アンコールは、「月光」の第一楽章だった。その次にショパンのスケルツォの2番。それで終わりかと思ったら、ちょっと唐突な感じで、エルガーの「愛の挨拶」(だっけ?)を弾き始めた。やっぱり親切で優しい人だなあとも思ったけれど、ベートーヴェンを弾くことで、解放されずに凝縮されて蓄積されていく何かを、そうやって徐々に解き放っていくのかなあ、という感じだった。
このベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲公演というのは、8年をかけて行なうというので、次回はまた来年ということだが、来年も行けるといいと思う。全曲公演といえば、山形交響楽団は、今、モーツァルトの交響曲全曲演奏というのをやっていて、これも行きたいのだが、都合が合わないのでまだ一度も行くことが出来ないでいる。