いちじくのタルト

Fig Tart
僕の家の庭にいちじくの木がある。毎年この季節になると、たくさんの果実を実らせている。でも、果実を収穫するために気をかけて栽培しているわけではないのでそんなものかとも思うのだが、採れる実は小ぶりで甘みもそんなにない。生で食べてもそんなにおいしくない。ずっと前、僕が子どもの頃に食べたいちじくはもう少し大きくて、甘みもあって、生でもけっこういけた気がする。昔の記憶だから、はっきりそうだったとは言えない。
そういういちじくでも、うちの親は、実ったものは律儀に木からもいで収穫としている。贈り物を受け取るように。それをどうするのかというと、砂糖で煮て食べている。まるでそれしか食べ方がないかのように、採ってきては砂糖で煮ている。ちゃんとした言い方でいうと「いちじくのコンポート」というのだろうか。ねっとりしたような感じで、種のつぶつぶした食感も気持ちよく、ヨーグルトなんかに入れて食べるとおいしい。おいしいことはおいしいのだけれど、この時期集中的に食べるので、少し食傷する(去年煮て冷凍したものがまだ残っているのだが、そのことを知っているのだろうか?)。
採れたいちじくを使ってタルトを作った。アーモンドクリームにいちじくをのせて焼いた。焼きたては艶やかで、いちじくの香りが立ち上ってきてすごくおいしそうだったのだが、一晩置いたらなんだか見た目にスカスカした感じになっている。おいしそうだと思えたときに食べるのが、なんでも一番いいのかもしれない。


「ジョットとその遺産展」

N響の公演まで時間があったので、最初はフェルメールでも観に行こうかと思っていたのだけれど、新宿の損保ジャパンの美術館で、ジョットの展覧会をやっているという。ジョットが日本で見られる機会なんてひょっとしてフェルメールより貴重なんじゃないかと思って、急遽観に行くことにした。でも、そもそもジョットを日本で観ようと思うこと自体が間違っている。考えてみればあたりまえなのかもしれない。そんなことに観に行ってから気づいてしまった。ジョットの作品の優れたものは、だいたいイタリアの寺院とか礼拝堂とかの壁に描かれているもので、観ようと思ったら自分がイタリアまで行くより他にない。
この展覧会でジョットの作品は4点あるということだったが、切れ端といっては悪いけど、もともと大きな壁かなんかに描かれていたものの部分的なものだった。1点はわりとサイズも大きくて状態もそれなりにしっかりしているのがあった。でもそれは、価値としてはわからないけど、個人的にはそんなにぐっとくるものではなかった。あとは、切り取られた板の側面もむき出しになり、絵具もずいぶん剥落してしまっているものがあって、その物質的なところが露になっている感じにちょっと生々しさがあって、それはそれで興味を引かれたところはあった。それにしても、たしかにジョットの手によって描かれたのかもしれないけど「もはや作品とは言えないんじゃないの」という感じだけど。
アッシジの「聖フランチェスコ」とパドヴァのスクロヴェー二礼拝堂の壁画の連作が、いくつか写真パネルで展示されていた。この二つなどは、一生のうち一度くらい現地に足を運んで観に行きたいなと思う。礼拝堂内の写真なども紹介されていたのだが、それを見ていてふと思ったのは、実際礼拝堂に行ったとしても、上の方の壁に描かれたものは観にくいんじゃないのだろうか、ということだった。イタリアまで行ったとしても、すべての作品を心ゆくまで堪能できるというのではないのかもしれない。
でも、NHKホールでまた礼拝堂のことをふと思い出した。遠くからオーケストラを見ているときに、僕の前の人がオペラグラスを使っていて、僕も覗いてみたくて無性にうらやましくなってしまったのだけど、そのときに、そういえば美術館などで近寄れないときにもオペラグラスは使えるよなあ、と。なんだかオペラグラスが欲しくなってきたのでした。


N響 第1625回定期公演 Aプログラム

デニソフ / 絵画(1970)
マーラー / 交響曲 第5番 嬰ハ短調
指揮|ハンス・ドレヴァンツ

所用でちょっと東京に行ったついで、NHK交響楽団の定期公演をNHKホールに聴きに行ってきた。僕は慣れない東京でくたくたに疲れていたので、なにしろマーラーの壮大な交響曲だし、聴いている途中で眠ってしまうかもしれないなと思って心配だった。幸い僕の席の左右に人がいなかったので、演奏中に姿勢を頻繁に変えたり、思いっきりあくびをしたりして(あくびは本当に何度も出た)、なるべく睡魔の付け入る隙を作らないようにしていた。マナーとしてはみっともないけれど、そうしたかいもあってか、なんとか眠らずに聴き通すことができた。
そんなことを書くとなんだかつまらない演奏を聴かされたみたいだけど、ただ僕は寝てしまいそうで本当に不安だっただけだ。僕は演奏中に寝てしまうのが本当に嫌なのだ。演奏が終了してみんなが拍手する。そこではっと目が覚めたりして、そのときの妙に冴えた感覚と、まるで聴いちゃいなかったくせにつられて拍手している自分。それは僕をものすごく空しくさせる。
でも、演奏がものすごく心に迫ってきて思わず眠気も吹っ飛んだとか、そういう感じだったら一番良かったのに、残念だけどそういうこともなかった。聴いていて一番に思ったのは「なんだか音が遠いなあ」ということだった。これは単純にホールの音響の問題というか、僕の聴いていたD席という場所の問題なのだろうか。S席からE席まであるうち、D席は3階にあった。実際NHKホールというのは相当に大きなホールで、3階までくるとオーケストラとはけっこう離れているのだ。このくらいの距離ともなると、伝わっていくうちに音はいくらか希釈されるのかもしれない。「遠くでお祭りの音が聞こえるような」なんて言うのはちょっと言い過ぎだけど、どこか隔たった別の場所で音楽が鳴っているのを聴いているような、そんな感じの聴こえ方がしていたような気がする。僕は繊細な技術を聴き分けられないから、どうしても迫力とか切迫感とか、雰囲気に頼って聴いてしまうところがあるのだが。
あまり良い感想を書けなかったけど、N響を聴けて良かったことは良かったと思った。N響は日本を代表するオーケストラなのだろうし、テレビでも見ているし、僕はその公演を生で聴けるのだと思ってけっこう楽しみだったのだ。それは、目の覚めるような体験ではなかったけど、やっぱり感動もしたし、良かったなと思ったのは本当だ。マーラーの5番では、有名な第4楽章も弦の響きが美しいこと。もちろんそれは作品の一要素にすぎないというほど、豊かで重層的な曲だったし、演奏もそうだった。それとデニソフの「絵画」という曲も「ちょっと古い現代音楽」的な響きがあって、こういう曲の演奏を聴くのもこれまでなかったし、おもしろいと思った。


眼鏡が折れた

眼鏡を拭いていたら、ポキッと音を立ててフレームが折れてしまった。レンズを囲っているところの鼻の側の部分で、一カ所折れたことによって、レンズも固定されずに外れてしまうし、なんというか途端にグニャグニャした不安定なものになってしまった。
僕はこれまでに何本かの眼鏡をかけ替えてきたけど、それは視力が合わなくなってきたり、なんとなく古びてきたりしたからで、こんなふうに壊れたということは、一度だってなかった。落としても、踏みつけても。だから眼鏡は、汚れたり傷がついたりすることはあるにしても、壊れるなんてことはないと、そんなふうに思っていたふしがあった(だからといって、そんなにバカみたいに力を入れてごしごし拭いていたわけでもなく、ごくあたりまえに汚れを拭いていただけだったのだが)。でも、こうしてポッキリ折れてしまうと、たしかに壊れるんだということに改めて気付かされる。そして、眼鏡はこんなふうに壊れるんだということがわかった。それは、前触れもなく壊れる。
応急措置として折れたところをテープで固定して、それをかけて家を出た。そして、あとでアロンアルファを買ってきてくっ付けた。継ぎ目もわからない、とまではいかなかったけれど。それどころか、小さくない隙間が出来て、接着材もはみ出ているけれど、なんとか、元の固形の眼鏡に落ち着いた感じになった。


チーズケーキ

チーズケーキ
これは人に食べてもらったらわりと好評だったので、うれしくなってしまった。実は食べてもらうまでは自信がなくて、「あんまりうまく出来なかったんだけど」みたいに断って出してしまったのだけど、それは謙遜的な意味合いではなくて、本当にそう思っていた。なんというか、思い描いている完成像とはやはり少し違ったものになっている。そういうと、「じゃあ、どうしたいの?」というふうに聞いてくれたのだけど、ちょっと考えてみたら、その思い描いているというものも、なんだかすごく些末なことにこだわっているような気がしてきたのだった。別にこれでも悪くはないのかも。少なくとも前回よりは全然いい。