Dさんの来訪

Dさんがやってきた。玄関を開けてまず目が合ったのはDさんではなくてDさんを連れた青い制服を着た若い男で、早口で二言三言何かを告げ、それは言葉として何と言っているのかまるで聞き取れなかったけれども何を言わんとしているのかということは理解された。ようするにDさんを引き渡したいのだが費用としてこれこれの額の金が要るということを言ったのだ。その金額は僕がそのとき手にしていた封筒の中身とまったく同額で、僕はただそれを取り出して手渡すだけで良かった。男がその紙幣を数えているあいだ、ぼけっと突っ立っている僕は玄関の戸から入り込んでくる外の冷たい空気に凍えていて、早くしてくれないかなと思った。

Dさんが僕にもたらしてくれるものは光のようなもので、絶望的に暗い穴蔵のようなところで暗闇に打ちひしがれているという恐怖をDさんは取り去ってくれる。つい最近目の手術をしたという人の話を聞いたのだが、その人は術後に眼帯をとってものを見たとき「世界はこんなに明るかったんだねえ」と言って感動していたのを思い出す。世界がどれだけ明るいかなんていう客観的な基準はやっぱりなくて、たぶんある人にとっては暗く見えていてある人にとっては明るく見えている。といっても、何しろ誰かの目を借りてその人がどんなふうに世界を眺めているのかということは確かめようがないのだから、それはわからない。他の人がどんなふうに世界を見たかということが表されているのが絵画などであって、でもそれも他の人が見て表されたものを自分の目を通して見るということだから、結局は自分が見ているものは自分以外の何者が見ているものではない。ただ見ようによっては、他人の目を通してものを見ることで普段自分が見ているのとはまるで違う世界が拓けてくるのを感じることはある。たぶんそれと同じようなことで、Dさんを通して見える世界はこれまで僕が見ているそれとはほとんど別世界のように思える。遥かに明るさをたたえている。というよりも、僕が闇の中で目をがんばって凝らしてようやく見えてくる本当に切れ切れに漂う光を漏らさず丁寧にすくいあげるというようなやさしさ。その光景は僕の無気力、無感覚、職務における無能などといった諸問題をきれいさっぱり払拭してくれるだろうことを予感させる。


ラフランスのタルト

ラフランスのタルト
ラフランスでタルトを。
夜中の11時くらいに作り始めたのだったが、あまりのんびり作って遅くなってしまうのも嫌だったし、手際良く、さくっと作ってしまおうと思って作った。そうしたら、さくっと作れたので、それに焼き上がりもなかなか良さそうな感じだったので、あれっと思ってしまった。別にこんなタルトはすごくシンプルなもので、何も難しい手順などはないのだけれど、これくらいのものをさくっと作れるくらいには、お菓子作りというかタルトを焼くことに関しては少しは慣れてきたんだなあという、我ながらの実感があった。
タルトは翌日の夜に食べました。


「ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密展」

宮城県美術館に表題の展覧会を観に行きました。すごく充実していて、見ごたえがありました。
一口に静物画といってもそれを通して表されるものは多岐にわたっているということも勉強になったし、それらの作品の目を見張るような精密な描写もとても楽しむことができた。そのなかでも、いやが上にも目を引きつけられるのはやっぱりベラスケスの《薔薇色の衣裳のマルガリータ王女》だった。展示順に作品を一つ一つ見てきて、最後の展示室でこれを見てしまうと、ベラスケスの絵画の異質さは本当に際立っていると感じさせられる。このほとんど魔術とも言える描き方には何度でも驚いてしまう。
ベラスケスのタッチというのは、ものの境目にまたがってなされているように見える。タッチを一つ置いたときに、二つのものを同時に描き、なおかつその関係も秩序づけられる、というような印象を持つ。
普通、ちょっと絵を描ける人が絵を描くとき、画面上ではどういうことがなされているのかというと、ものの境目を決定づけていくということが行なわれているのだと思う。一つタッチを置いて、それに対してもう一つのタッチをぶつける。そのタッチとタッチ、色と色とがぶつかったところに色の境目が出来て(それは描いているものの境目でもあって)、そのぶつかり具合によって、ものとものとの前後関係が決まってきて画面の中に空間が発生する。絵を描く人が使う用語で「きわぜめ」という言葉がたしかあったと思う。もののきわ、境目が絵を描くときの神経を使うべきところで、きわを決めていく、ということが絵を描くというのと同義であって、必然的にきわに対して手を入れる回数も多くなるし、逆に言えば、きわさえ決まっていればそれ以外のところは、どうでもいいとまでは言わないまでも、邪魔にさえならなければいい、というようなことはよく言われる。
この展覧会に出品されている他の静物画を描いた画家も、きわを決めていくのがすごく上手くて、つまり絵がすごく上手いと思う。だけど、そうした画家たちと比べてベラスケスが明らかに異質なのは、普通はきわに対して両側から探っていくところを、いきなり真ん中で、一回で捉えていくような感触があることだ。一つの筆触を加えることで、結果的に二つ以上のものが発生しているという事態。だから近くでは見て数えられるほどのタッチが残されているだけなのに、ちょっと離れて見ると、いきなり描かれたものの質感が浮き上がってくる。こんなふうにして絵が成り立っているということはちょっと信じがたい。
しかも、さらに脱帽させられるのは、この画面構成がすごく大胆に簡潔に、かっこ良くきまっていることだ。(後ろのカーテンとテーブルクロスによってできる対角線、画面の上辺中央を頂点にテーブルクロスの皺、王女の衣裳を結んで出来る三角形など、少し補助線を引いてやれば一目瞭然だ!)こういうのは本当に、僕の中では名画としか言いようのないものだ。


善光寺

善光寺
長野市の善光寺を参拝してきました。長野には仕事で来たのだった。仕事であちこち行ったりはするのだけれど、いつもはとんぼ返りで帰るだけなので観光なんかは全くできないだけれど、今回は珍しくちょっとだけ時間が空いたので、善光寺参りに行くことができた。「牛に引かれて善光寺」というやつですね。
善光寺の本堂は、外観はすごく質素であっけらかんとしていて、そのたたずまいがすごくいいなと思った。建物としてけっこう大きいのだが、ただ大きいというより雄大さみたいなものを感じる。本堂の周りの石灯籠が並ぶところでは紅葉なども映えてきれいだった。
七五三で華やかな着物の衣装で着飾った子どもも多く、見ていたらすごくかわいかった。親が写真を撮ろうと思ってカメラを構えているのに、まるで意に介さない様子でハトを追いかけていたり、線香を炊いて煙が黙々と立ち上っているところで、煙が目にしみてすごい形相で嫌がっていたり、そういうのは本当に絵に描いたような子どもらしさを体現していて、耐えがたく微笑ましい気分になってしまうのだけれど、それは親に知れたら、勝手に我が子を見てそんなにニヤニヤしないでほしい、みたいに眉をひそめられるんじゃないか、という心配をしてしまうほどだった。
本堂の内陣の奥に行くと「お戒壇めぐり」というのがあって、これは何かというと、真っ暗な回廊の中を手探りで進んでいって錠前を探りあてる、というもの。錠前は極楽につながっていて、それを探り当てることで御本尊と結縁するという。階段を降りていったところの回廊は真っ暗で何も見えない。しばらくすると目が慣れてくるといったものではなくて完全な暗闇に近く、本当に何も見えない。けっこう怖い。ところがしばらく暗闇の中を進んでいくと、前の方でぽっと明かりが付いて、上から明かりが漏れているところがあるのかなと思ったのだけど、前にいる人が携帯をパカッと開いて照らしているのだった。なんだか興醒めしてしまって残念に思った。


紅玉のタルト

紅玉のタルト
オーブンで焼いてからその熱を冷まして切り分けたりんごのタルトを、もちろん冷えてからでもおいしいと思うのだけど、食べるときに電子レンジで温めた。どちらがおいしいというよりも、温かくした食べ物というのは、それが冷えているときとはもう全く別の食べ物といってもいいのではないだろうか。再び温めると切り口のりんごがとろりとなって、タルトは少し形を崩した。りんごとシナモンの甘くてやわらかい匂い。コーヒーメーカーでコーヒーをつくって、たっぷりとカップに注ぐ。タルトをフォークで崩して口に入れた。少し酸味が効いてそれから甘さを感じる。僕はタルトを2切れ食べて、コーヒーをごくごく飲んだ。

タルトの生地は材料をこね合わせてから一度寝かせるという手順を踏むわけなので、僕はたいてい前日の夜にそれをやっておくのだが、昨晩は早い時間にぐうぐう寝入ってしまったので、今日は朝起きてまず生地をこねた。
それから地元の産直の野菜や果物なんかを売る農協のお店に行って、りんごの紅玉を買った。紅玉はしばらく前から出回り始めていて、アップルパイとかそういうものを作る時期なのだなあと思うのだが、ぶどうとか梨とか、栗とか、実りの秋というかそういうものを十分に楽しんだという前に季節が移り変わっていく感もなくはないので、もう少し後になってから紅玉が出てきてくれてもいい。
午後になって、ラップに包んで冷蔵庫に寝かせておいた生地は冷えて固くなっていて、それをめん棒で伸して型に敷き詰めてオーブンに入れて空焼きした。タルト生地が軽く焼けると、その上にりんごをいちょう切りにして盛った。りんごには小麦粉をまぶしておく。そうすると、粉がりんごから出る水分を吸って、タルトの生地がサクサクのままに保てるという。砂糖と、シナモンをふりかけた。クランブルには胡桃を混ぜた。
オーブンは190度に設定して、時間はどの程度で焼けるのかわからなかったけど、とりあえず25分にして、そのときの焼け具合を見て、もういくらか焼き足そうと思った。しばらくすると、リンゴが焼ける匂いとシナモンの香りが合わさった、なんというかすごくおいしいものが醸成されているに違いないという香りが立ちこめてくる。焼くのを待つ間は本などを読みながら、でもオーブンからは離れないで待っていた。25分が経って、もう20分くらいは焼いたころだったろうか、ちょっと焦げるような匂いが一瞬混じったような気がしたので、すぐさまオーブンから取り出すと、別に焦げてはいなくて安心した。焦げるどころか、きれいによく焼けていると思った。