マンゴーとレアチーズのタルト

マンゴーとレアチーズのタルト
レアチーズケーキの上にマンゴープリンを重ねてみるとして、もしかするとそれは大層おいしいのではないだろうか、と、ちょっとひらめくところがあったので作ってみたのでしたが、あえなく失敗しました。
マンゴーも完熟してなかったのかもしれない。けっこう繊維質があってつぶしにくくて、だいたいでいいやと思ったら、ぼそぼそしたプリンになってしまった。タルト生地もなんか固いばっかりで、さっくりと上手に焼けなかった。
というように失敗したところはいろいろありまして、というか、うまくいったところがさっぱりなかったというのが実情だったのだけど、それぞれがうまくできたら、それは本当においしかったのだろうか? いや、まずくはないだろうけどさ。まったく気力も自信もなくしてしまった今では、そもそもどの辺がひらめきだったのかも判然としない。


バイクを売りました

バイクを引き取ってもらった。
エンジンをかけてみようとしたら、うんともすんともいわなくて、たぶんバッテリーが寿命だったと思う。その交換費用をだしてまでこのバイクに乗りたいのかといえば、うーん、と、ためらってしまうわけで、だったらそろそろ売ってしまっても良いかと思ったのだった。バイクは動かないし持っていくこともできないので、バイクの買い取り業者に電話して来てもらった。全く値段が付かなくてもしょうがないな、と思っていたけど、いくらかの値段を付けて買い取ってくれた。さようなら。
思えば、あまり書いてはいないけどこのブログにもバイクのカテゴリがあって、カテゴリがあるということは何かしらバイクについて書こうとした時期があることはあったということだし、書いていない時期でも、ときどきはバイクに跨がったりすることはもちろんあった。
そういえば、と、思い出したように書くのだけど、僕はけっこうバイクが好きだったのだ。このバイクもけっこう好きだった。あまり人気のない、変なバイクで、ボロかったけど。だから、多少なりとも愛着のあるこのバイクを手放すことには、それなりの感慨がなくもない。
乗っていたバイクは、HONDAのXLディグリーというバイクで、バイク屋で店頭に中古車が並んでいたのを見つけて、すぐ買った。年式相応に古くなってはいたけれども、見た目も悪くないと思ったし、なにしろ安かったのだ。買ったときにちょうどバッテリーを新品に交換したと聞いた。あれから6年間ものあいだ一度もバッテリーを交換せず走ってくれた。
バイクに乗っていて楽しかったなあ、とは本当に思う。実は僕は車などにほとんど興味がなく、どんな車でも乗れれば良いという人間で、まあ、出来れば燃費が良ければ良いのではないか、エコだし、みたいなことは思う。運転も面倒で、出来れば自分が運転しないで目的地まで着けばそれが一番だと思う(だから僕は乗り物としては飛行機とか電車が好きだ)。バイクも、良いバイクが欲しいとか、性能がどうとかいうことには大して関心がなかったけど、けれども、バイクに乗ることは案外好きだった。
かといって、バイクでどこかに行くということもあまりなかったけれど。一応オフロードバイクだけど、山になんか一度だって行ったことがない。友達でバイクを乗っている人もあまりいなかったので、誰かとツーリングに行くということもなかったし、だからといって一人でどこかに遠出する気概もなかった。
それで、何が楽しかったの? と聞かれても、自分でもよくわからなくなってしまうのだけど、とにかく楽しかった。また何かバイクを買おうかな、とも最近思い始めてきたのだが、バイクといったって安くはないので、非常に悩むところである。


ルバーブ栽培:育ったり育たなかったりしてる

2009-05-19 ルバーブ
なかなか大きくならないなと懸念に思っていたルバーブですが、やっぱりだめな気がします。前回からほとんど変化もないし、もうなんか、成長は止まったみたい……。なんとかならないものかなあ。
そんな中、育っているのがありました! 後から種をまいたものなのですが、こちらはどういうわけか、なかなか良い感じで育っています。葉っぱの大きさも明らかに違うし、それなりに植物の生命力を感じる。この調子でがんばってほしいものです。
最初にまいた分は全滅かもしれないし、残しておいた種も今から撒いてみようかな。あんまりたくさん育ててもね、と思って、全部撒かずに種を余らせていたのですが、たくさんも何も、一つでもまとも育つかどうか、という瀬戸際なのでした。
芽の出るのがちょっと早いとか、芽がちょっと大きいとか、ちょっと小さいとか、というのはあって、そうした差を愛でてもいたのだけど、根本から違うものが一つ出てくると、それ以外はどれもが劣等なのであることがわかり、最初に見ていたその差もないに等しい、というふうになってしまうのは、なんか寂しいものがある。
(播種から44日目)
ちゃんと育っている(と思われる)ルバーブ
2009-05-19 ルバーブ


育ったり育たなかったり

2009-05-19 ルバーブ
なかなか大きくならないなと懸念に思っていたルバーブですが、やっぱりだめな気がします。前回からほとんど変化もないし、もうなんか、成長は止まったみたい……。なんとかならないものかなあ。
そんな中、育っているのがありました! 後から種をまいたものなのですが、こちらはどういうわけか、なかなか良い感じで育っています。葉っぱの大きさも明らかに違うし、それなりに植物の生命力を感じる。この調子でがんばってほしいものです。
最初にまいた分は全滅かもしれないし、残しておいた種も今から撒いてみようかな。あんまりたくさん育ててもね、と思って、全部撒かずに種を余らせていたのですが、たくさんも何も、一つでもまとも育つかどうか、という瀬戸際なのでした。
芽の出るのがちょっと早いとか、芽がちょっと大きいとか、ちょっと小さいとか、というのはあって、そうした差を愛でてもいたのだけど、根本から違うものが一つ出てくると、それ以外はどれもが劣等なのであることがわかり、最初に見ていたその差もないに等しい、というふうになってしまうのは、なんか寂しいものがある。
(播種から44日目)
ちゃんと育っている(と思われる)ルバーブ
2009-05-19 ルバーブ


杏のタルト

Apricot Tart
杏のシロップ漬けを生地の中に入れて焼き込む。なかなかおいしい。
なんか少しコクのあるというかクセのある、ほのかに立ち上る香りが、どこかで嗅いだことのある匂いだなと思って、ふと思い当たったのが、カロリーメイトのチーズ味の匂いってこんなんじゃなかったっけ、ということで、これは一体どういうことなのだろうね?

誰に向けて、というわけでもないけど、必要とする人がいないとも限らないので、一応、情報を。
山形市にある調理器具・製菓材料店の「COOKS-81」さんで、5月23日〜25日に決算セールが行なわれる模様です。お菓子づくりや料理の好きな方、調理器具の購入を考えている方は是非行ってみてくださいね!
地図はこちらです。


ルバーブ栽培:本葉が出てますが

2009-05-07ルバーブ
双葉の間から本葉が一枚出ています。(雑草も混じってます。)
あいかわらず、ルバーブの成長は遅々としている気がする。
土とか水とかが合わないんじゃないの? 繊細なたちなのかしら。
けっこう暖かい日が続いているのだし、もっとスクスク伸びていってもいいんじゃないの? と、まあ、べつに気をもむ必要もないですかね。
(5月7日 種をまいてから32日目)


本葉がでました

2009-05-07ルバーブ
双葉の間から本葉が一枚出ています。(雑草も混じってます。)
あいかわらず、ルバーブの成長は遅々としている気がする。
土とか水とかが合わないんじゃないの? 繊細なたちなのかしら。
けっこう暖かい日が続いているのだし、もっとスクスク伸びていってもいいんじゃないの? と、まあ、べつに気をもむ必要もないですかね。
(5月7日 種をまいてから32日目)


マルセル・プルースト『失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントの方 Ⅰ』

語り手の一家は、ヴィルパリジ侯爵夫人の紹介により、ゲルマント邸宅の一角にあるアパルトマンに引っ越している。オペラ座にてゲルマント公爵夫人を見かけ、強い憧れを抱いた語り手は、散歩の途中で待ち伏せしたり、夫人の甥であるサン=ルーには彼女に会わせてもらえるよう根回ししたりするほどの熱の入れよう。やがてヴィルパリジ夫人のサロンにて、ゲルマント夫人にお目にかかるのだが……。
名前と現実、想像と幻滅、このあたりは、どうやらプルーストの小説に含まれた重要なファクターの一つであるらしい。

〈名前〉が現実の場所を指し示すと同時に、〈名前〉のなかに私たちが注ぎこんだ知りえないもののイメージをも提供している時代、そのために私たちは現実の場所とイメージを同一視させられた結果、一つの都市へ一つの魂を探し求めに出かけるくらいだが、都市は魂など含んでいるはずもないのに、私たちはもはや名前からその魂を追放する力も持ち合わせていない時代、そうした時代にあっては寓意画がやるようにただ町や川のみに個性を与えるわけではないし、ただ自然の世界のみを、さまざまに異なった色彩で飾ったり、すばらしいもので満たしたりするわけではない (p.20-21)
目にかわって想像力が周囲のものを眺めるわけにはいかないだろう (p.286)

一見何を言っているのわからないのだけど、3回くらいじっくり読み返せばなんとなく理解した気になる。この本は、訳注も丁寧で親切なのだけど、ここでは次のように補足している。「不在のものを見つめる想像力が美をとらえるのに対して、現実のものを知覚しても、美は生まれてこない。そこから、夢と幻滅の繰り返しが起こる。それをどうやって越えるかが、この小説全体の課題でもある」。だそうです。
そういえば、語り手は、妄想を膨らませておきながら実物に出会うと幻滅する、ということを前の巻でもやたらと繰り返している。著作を読んで尊敬していた作家に出会うと、「こんなカタツムリのような鼻をしたヤツが書いていたのか……」とペテンにかけられたようにがっかりする(ひどい!)。かと思えば、見たい見たいと切望していたバルベックの教会の聖母像では、実際目にしてみると、けっして思い描いていたような「普遍的な存在」でも「侵し得ない美」でもなく、たまたまそこに置かれてあるちっぽけな石の老婆に過ぎない、と、ばっさりと切って捨てる。この落差はただ事ではない。
そしてこの巻では、ゲルマントという名前と、目の前にいる夫人が一致しない、ということが起こるのであった。(「ゲルマントという名前のために、頬には紋章が浮かんでいても良かったような気がする」とか、むちゃくちゃなことを言っている!)
思うに、幻滅したりっていうことは、よくあるとまではいわなくてもままあることで、けれども、幻滅したり落胆したりするのはどこか悪いことのようなところもあって、私たちはよく、「あまりがっかりしないでね」とか「そんなものだよ」などと言ってなんとなく事をうやむやにしているのではないだろうか。そんなものってどんなものなのか。そこにある落差とは一体何なのか。語り手は、そのことを徹頭徹尾、誤摩化さずに直視して計っているというところが偉いのではないだろうか、と思った。
あと、この巻では、サン=ルーがちょっとかわいそう。彼の恋人のラシェルは、実はけちな娼婦で、彼はそのことを知らないのである。これはスワンとオデットの関係にも近いのだけど、サン=ルーの場合はなぜかかわいそうに思えてしまった。誰彼かまわず20フランで提供されていたこの女に、どうしてロベールは100万フランも費やさなければならなかったのか…、だとかなんとか、友人である語り手が相変わらず冷静に分析しているのも、ここではなんか嫌。
サン=ルー、いいやつなのに……。