最近の日記(3/1〜7)

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3月1日、フォーラム山形に『百円の恋』を観にいく。映画がというか安藤サクラがとってもよかった。安藤サクラを観るためだけの映画なのだろう。
2日、DVDで『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(ダグ・リーマン監督、2014年)を観る。
3日、帰りが遅くなった。駆け込みでジムの風呂に入りにいく。
4日、帰りが遅くなった。ジムは休館日。
5日、ジムで筋トレ少しとエアロバイク30分。
6日、DVDで『フルートベール駅で』(ライアン・クーグラー監督、2013年)を観る。
7日、ジムで筋トレ少しとエアロバイク45分。春めいてきた、とまでは言えないけれども、雪もなくなったので、新しい靴をおろして、散髪に行く。デコポンのタルトを焼く。

トマス・ピンチョンの『LAヴァイス』を読んでいる。映画は何も考えなくても勝手に物語が進んでいくけど、本は自分から読まないと進まないし、それも読むのに慣れてこないとサクサクとは進まない。2週間読み進めてまだ半分といったところ。返却まであと1週間、読み終えられなさそうである。

はい、こちら、バカ・アンリミテッド。行くのは最初、知るのは最後。私どもドジでマヌケなやり方で、あなたの晩をどう台無しにいたしましょう? ーー『LAヴァイス』


最近の日記(〜2/14)

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だいぶ雪が溶けてきたなあと思っていると、またまとまった雪が降る、といった調子で、まだロードバイクに乗れる感じでもない。引き続きジムに行ったりDVDを見たりしている。今週と先週見た映画は以下。

『ゼロ・グラビティ』(アルフォンソ・キュアロン監督、2013年)
『MUD』(ジェフ・ニコルズ監督、2012年)
『オールド・ボーイ』(スパイク・リー監督、2013年)
『それでも夜は明ける』(スティーヴ・マックイーン監督、2013年)
『野いちご』(イングマール・ベルイマン監督、1957年)
『処女の泉』(1960年)
『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』(アレクサンダー・ペイン監督、2013年)

一週間を映画とジムの半分に分けるなら、ジムも7回行かないといけないのだが、こちらはそれほど行けなかった。(ジムのタダ風呂ーーいや月会費を払っているのでタダではないーーには毎日行ってる)

あとは、『ゴーン・ガール』がたいへんおもしろかったので原作小説の方も読みはじめました。ネタバレしてない状態で読めたらもっとハラハラして面白いのだろうなと思うけれども、こればっかりはしょうがない。まっさらな状態で先に映画を見れたのはよかったです。

経済の破綻はぼくの精神状態とも完璧にマッチしていた。ここ数年、ぼくは退屈しきっていた。それは落ち着きのない子どもが訴えるような退屈さではなく(それからも卒業しきれてはいないが)、もっと重苦しい、全身を覆うような倦怠感だった。ーー『ゴーン・ガール』


一日一日を大事に生きている

「一日一日を大事に生きている」と堀越二郎は言ったけれども彼がやっているのは仕事だけであったように見えた。私も一日一日を大事に生きたいと願っている。だが堀越のように仕事に打ち込めるとも思えない。そうかあ、だからダメなのかなあ、などと考えつつ、今週もまた、仕事をそそくさと切り上げてジムでエクササイズに励むのとDVDを見る日を交互に送った。ジムの方はあいかわらずで、なんということもない。今週観た映画は『風立ちぬ』(宮崎駿監督)と『第七の封印』(イングマール・ベルイマン監督)。読み終えた本は内田百閒の『御馳走帖』。

『風立ちぬ』はよかったけれども、なんだか気味の悪い映画だなあと思った。「天才の天才による天才のための映画」と言っていたのを何かで見たけれど、まさにそんな感じで、嫌な感じだなあと思った。「美」のためならそれ以外のことなんか(人が死のうがなんだろうが)知ったこっちゃない、というのは、天才の天才たる所以なのかもしれないが、これはたいへんに残酷で、ぞっとさせられる。最後の方で、堀越二郎の集大成である零戦が出てくる場面がある。このシーンでの零戦の動きは、これまでの航空機とは一線を画す動きで、たいへん美しく感じさせるのだが、もちろん零戦というのはたいへんな殺戮機でもある。

『第七の封印』は、中世ヨーロッパの十字軍遠征から帰還した騎士が死神と生死をかけてチェスをするという、哲学的思索的かつ詩的味わいに富んだ映画である。純朴な旅芸人の夫婦がとってもいい。

『御馳走帖』は前から少しずつ読んでいたのだが、内田百閒の文章がとてもいい。こういう、文人が食について綴っているのを読むのはけっこう好きである。おいしそうだし。特に内田百閒は食にこだわっているんだかいないんだか、好き勝手にやっている感じがとてもよかった。


全ての装備を知恵に置き換えること

週末日記

土曜日。朝に本を読む。石川直樹『全ての装備を知恵に置き換えること』を読む。活動の規模はぜんっぜん違うけれども、私が自転車に乗るのも要は冒険なのだと思っていて、だから、ほとんど宗教なんじゃないか、みたいなところもある次の文章も、けっこう分かる気がするというか、やっぱり私の実感とどこかで通じているように思う。

正面にあるチョモランマの頂上ピラミッドを見つめながら、やがてその直下に立って頂きをを仰ぐまでの時間、それは人生の幸福といってもいい。宇宙と対面し、発する光を全身に浴びて歩くこと。たとえそのすぐ先で滑落しようとも、この瞬間瞬間に確かに自分が存在していることが、ぼくにとって生きている喜びなのだと思った。

日曜日。いろいろと用事を足すのによく歩いた日。サイズが大きくて歩きにくいと思っていたブーツも靴下を2枚履いて紐をきつく縛ったら具合が良かった。歩いてDVDを返しに行き、また借りて歩いて帰る。歩いてジムの風呂に行く。

夜、DVDで『ヤング・ゼネレーション』を観る。とてもいい映画。自転車好きでイタリアかぶれの主人公デイブがかなりいい奴。ああ自転車、超好きなんだなっていう感じで。そのデイブとつるんでいる、大学にも行けず、かといって仕事もせず悶々と悩んでいるダメな仲間連中もまたいい。最後にチームで参加する自転車レースもあからさまにやる気がなく、デイブが怪我をしたからしょうがなく走るくらいで、結局はデイブ一人しか頑張っていなくて、でも優勝して皆でわあーっとなるのがいい。


わたしたちが孤児だったころ

夏休み。実家でのんびりと過ごす。最近はちっとも本を読むことがなくなっているのでこの機に小説などを読もうとカズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を図書館から借りてきた。

著名な探偵である語り手が、当時の記憶を回想しつつ子どもの頃に失踪した両親を探す、というストーリー立てになっているが、後半、いつのまにか事態が急激に核心へと近づいていくあたりから、語り手の記憶というか思考回路がずれてくる、その奇妙な歪み具合が圧巻である。両親が幽閉されていると思い込んでいる目的地へ向かう様は、普通に考えてまともな感覚を持った探偵の行動ではないのだが、それが当人の口からこともなげに語られるのがシュールである。

語り手の記憶も物語もどこまで本当なのかはわからない。なにに対しても信頼していいという根拠はない。あるいはそれは、わたしがいま見えているこの世界だって同じかもしれないのであって、わたしはわたしを信頼できるのだろうか…ということであり、しかしそれでもわたしは、自分に残されたかすかな記憶を拠り所にしてこの混迷をきわめる生に立ち向かうしかないのだが…ということではなかろうか、と思った。

 

だが、今になってきみにも世界がほんとうはどんなものだかわかっただろう? きみがどのようにして有名な探偵になれたかもわかっただろう? 探偵とはな! そんなものが何の役に立つ? 盗まれた宝石、遺産のために殺された貴族。世の中で相手にしなければならないのはそういうものだけだと思っているのかい? きみのお母さんは、きみに永遠に魔法がかけられた楽しい世界で生きてほしいと思っていた。しかし、そんなことは無理だ。結局、最後にはそんな世界は粉々に砕けてしまうんだ。きみのそんな世界がこんなにも長く続くことができたなんて奇跡だよ。さあ、パフィン。きみにチャンスをやるよ。さあ


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週末路上日記

土曜日。午前中は自転車。午後から、食べログで見た、安くてうまい、でも待ち時間が異常にかかるという洋食屋を目当てに出かける。とにかく注文した料理が出てくるのが遅いのだという。そんなに遅いなら待ち時間に読書をしよう、むしろ早く出てこないほうがいい、と、ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』をバッグに入れて、お店に向かうと、まだ1時を回ったばかりだったのだが既に営業を終了していた。どうやら、そう簡単には料理にありつけない、一筋縄ではいかないお店らしい。家のほうに引き返す途中、市役所の食堂で定食でも食べようと思ったのだが今日は土曜日で閉まっているのであった。2度も当てが外れるともうどうでもよくなり、その辺のどうでもいいラーメンを食べた。シベールカフェでホットミルクを注文して本を読んだ。眠くなって少し寝た。一度家に帰ってから、髪を切りに行った。

日曜日。朝、隣近所の一斉清掃。その後、自転車で路上へ。たいへん天気が良く、風もそれほどではなく、絶好の路上日和。午後、部屋で『オン・ザ・ロード』を読み進めるが、またも睡魔がやってきてひと眠り。

 

「ものごとはひとりでに進み、おまえは道路からはずれず、だからおれは眠れる。それに、おれたちはアメリカを知っているから、のんきなもんさ、アメリカならどこへでも行けて、どこもかしこもおなじだから、欲しいものはなんでも手に入る。人間のことも、どう振る舞うかも承知してるしな。ギブ・アンド・テイクで、なんだか複雑な気持ち良さのなかを、あっちこっちジグザクに進んでいくんだ」なにを言っているのか、まるでクリアではなかったが、なにが言いたいのかはピュアですこしクリアだった。

ーー『オン・ザ・ロード』


基礎から学ぶ!

図書館に行く。体を鍛えるには運動とともに食事が肝要だろうということでスポーツ栄養学の本を探しに。食事メニューが写真付きで載っている本もあったが、具体的に献立を提案されても絶対に同じものを作って食べたりはしないことが予想されたので、ふつうに栄養学の基礎が読めるのがいいかと思い『基礎から学ぶ!スポーツ栄養学』(鈴木志保子)を借りる。でもまあ、一読したところで分かったような分からないような…、けっきょく「バランスよく食べることが大事」というような、あたりまえすぎてほとんど意味のなさないことしか読み取れなかったのではないか。いかんなあ。もういちど精読すべきである。

ジムに行く。バイクマシンでウォームアップ10分。ストレッチ。筋トレ。トレッドミル20分。バイクマシン20分。ストレッチ。

夜は、フカヒレのスープで鶏肉と椎茸を煮込んだもの、ほうれん草、ご飯、牛乳。デザートに栗蒸し羊羹。(摂ったもの:肉類、野菜、きのこ、穀類、脂類、乳。足りなかったもの:魚類(フカヒレは魚類?)、豆、野菜類、いも類)

たいそうくたびれたので早々に寝る。


すこしも憂鬱なところのない、ほとんど幸せとさえいえる一日

すこしも憂鬱なところのない、ほとんど幸せとさえいえる一日が過ぎ去ったのだ。

ーー『イワン・デニーソヴィチの一日』

 

日曜日にトレーニングをした翌朝はたいへん気だるい疲労感とともに目が覚めた。月曜日は休息日ということで風呂にだけ入りにジムに行った。火曜日の夜はトレーニングを行った。一日おきでトレーニングをやっていこうかと思うのだが、仕事でできなかったり、疲れが残っていたりで、だらだらとしたものになりそうではある。でもやらなかった頃よりは体調もいいので少し続けてみたい。

平日の夜はけっこう人がはいっていて、日曜日よりも人が多い感じ。ウォームアップをトレッドミルでやるつもりが、全てのマシンが埋まっている。しょうがないので外周のランニングコースを実走する。脇腹が痛くなる。ストレッチ。筋トレはパスしようかとも思ったが、とりあえずやる。有酸素運動はバイクマシンで30分。ストレッチ。終了。

 

ソルジェニーツィンの、ソ連時代の悲惨きわまる強制収容所での一日を淡々と克明に描いた小説『イワン・デニーソヴィチの一日』がとてもよかった。収容所で囚人たちは過酷な労働を強いられもするのだが、意外にもというか生き生きとした働きぶりを見せるのがとてもいい。

ただそうはいっても「労働」というのは本質的に「罰」なのだ。ただ日々の糧を得るために仕事をしているのであっても、まるで刑に服しているかのように苦痛を伴うことは多々あるし、どこかに収容されているかのような不自由さに息が詰まる、そんなのはよくあることだ。というか私の一日がそれである。

けれども、「こんな日が、彼の刑期のはじめから終わりまでに、三千六百五十三日あった」というイワン・デニーソヴィチの収容所での一日が、上に引用した一文で結ばれているのがたいへんに私の胸を打つ。これほど絶望に塗りこめられた閉塞感のなかで、なに一つ幸福な要素など見あたらない時間を過ごしたあとで、それでも憂鬱にならなかったというそれだけのことでささやかな幸せの実感を噛み締める瞬間は、ああ、たしかに私にも覚えがある。そしてこれから何日と続いていくのか分からない私の「刑期」のなかで、眠りにつくまえに一日をそう振り返ることのできる夜はどれほどあるだろうか。


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